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何故、殺人はいけないのに、殺生には極刑がないのでしょうか?

人は、家族や友達、周りの親友が悲しんだり、その人のこれからの未来を奪うから絶対にしてはいけないのだ。
このように、NHKの週刊こどもニュースでやっていました。しかし、矛盾は一切指摘されていませんでした。

ペットや、その辺にいる野良猫。そして、実験動物に使われるとても可愛い兎や二十日ネズミ、害虫(美しいモンシロ蝶の、幼虫)を何故、殺すことが出来るのでしょうか?
人との違いはいったい何なのでしょうか?ここに、矛盾は全く無いのでしょうか?


もしよろしければ、この矛盾を、

こどもに、「人を殺してはいけないよ」と自信を持って言える、お父さん、お母さん、
小中の教師、
大学などで生物を使う実験している方

に答えていただきたいです。もちろん、このことを真剣に考えている方ならだれでも歓迎です。

また、差し支えなければ、書く前に、
矛盾の有無と、どの立場(親?教師?)からの意見なのかを書いてください。よろしくお願いいたします。

因みに、私自身は、昔(小学校)からこのことが疑問で、薬学に行かなかった、ごくごく普通の大学生です。

なお、法律的に殺すとまずから。というお答えは必要ありません。
なぜ、人を殺してはいけないかを、上記の視点からすごく矛盾を抱えて悩んでいる、小学低学年の子に分かるように教えてください。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (19件中1~10件)

いろんなご意見があるものですね。



まずtihiro_t1さんが疑問に思っておられる殺生の矛盾についてですが、食物連鎖に関係する地球上の生物はほとんど全て、他の生物を殺さないと生きていけないことは事実です。その中でも多くの回答者の方が「食べるために殺す」ことの意味について書いておられますが、tihiro_tさんは、食べなくても殺される実験動物や害虫などに疑問を持たれているのですね。しかし、人間が普通に生活するだけで、実はもっと多くの生物の命を奪います。住む家を建てるために木を切り(殺し)、またそのときには地中にいた多くの昆虫が死にます。車を運転するとアリやミミズなどを知らないうちに踏みつけ、布団を干したり掃除機をかけると多くのダニが死にます。歯を磨いたり、手を洗うだけでそこにいた微生物は死んでしまいます。微生物でも立派な生物です。昆虫は殺すとかわいそうだが、微生物は殺してよいとお考えではないでしょう?生物の中で殺してよい生物、悪い生物を分けることは、きっとtihiro_tさんのお考えには反するでしょう。

結局、人間もこの地球上で生きていく限り、理由はなんであれ、他の生物を殺さないと生きていけないのでしょう。

ではそれと殺人との関係をどう考えるか。
誤解を恐れずに私の率直な考えをいうなら、最近のニュースであるような、極悪非道な殺人者の姿。それを「悪魔」だという目でマスコミも世間も見ますよね。もちろん被害者やその家族の心情は察するにあまりありますが、それだけで事件を語ってはいけないような気がするのです。もっとはっきり言うと、あの極悪非道な殺人者たち、「あれは人間ではなく悪魔だ」ではなく、「あれも我々と全く同じ人間の一面の姿だ」と思うのです。つまり、一般論として人間は、状況、立場、理由などいくつかの条件が整えば、殺人を犯してしまう生物なのだと思うのです。少し古いですが、オーム事件のとき、もし私がその集団にいて、サリンを撒いた人たちと同じ立場であったら、「それでも私は命は大切だと思うから、例え自分がどうなろうと、決してサリンを撒かなかった」と断言することはできません。もしかしたら自分の身を守るために、彼らと同じことをしたかも知れません。
しかし殺人が蔓延すると、日常生活が成り立ちませんから、有史以降は法でなんとかそれを縛っているのだ、というのが私の考えです。

結論を繰り返すと、人間も地球上の生物でいる以上、人間や他の生物の命を奪って生きていく。これは道徳でも法でも完全にやめさせることはできない。しかし、被害者が人間や、人間に愛される動物に限って、少しでも歯止めがかかるよう、法で規制している、ということです。
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この回答へのお礼

>>全ての皆様へ
返答、大変遅れも本当に申し訳ありません。(長い間、帰省していたためネットに接続できませんでした

非常に多くの貴重なレスをいただき本当にありがとうございます。そして、多くの人にとって、矛盾はまだ存在している。しかし、生きているのだ。ということが理解できました。

本当にありがとうございました!!

お礼日時:2003/09/19 13:06

現在親となった元小学生(貴方の言うところの矛盾を抱えて悩んでいた)です。

殺人も自殺も本気で(実行を)考えていた時期が結構ありました。そういう経験をもとに達した結論です。

あえて論争には加わりません。思考停止だとかきれいごとだとか建前だと言われそうですが、以下の雑文がわたしの本音です。何かみなさんの議論のネタになればと思い書いてみました。長文ですみません。

最近よく取り沙汰されますが、なぜ人を殺してはいけないという悩み自体が異端だと思います。自分が生きる存在としてありながら、他の生命をないがしろにすることの悪を自明のこととして受け入れられないならば、あとは何らかの理論(建前でも法でもシステムでもいいですが)で無理やりそういう結論を引き出すしかないでしょう。わたしは子供に人を殺してはいけないなんて教える気はありません。とにかく、必死に一生懸命生きることだけ教えたいです。人から教わらないと殺人がいけないことが分からない時点でもう、貴方の言う道徳の枠を超えている気がします。貴方の話のなかで殺人犯がうんぬんという話がありましたが、あの人たちは誰にも教わることができなかった代わりに実際に人を殺めて初めてその罪を知ったのだと思います。

さて、殺生についてですが、これもわたしは全て悪であることは自明だと思います。それどころか機械や山や川にだって命があると思っています。ただ、自分が一生懸命に生きる過程でたちはだかる矛盾と戦っていかねばならぬのだと思います。いい加減な言葉ですが、自分にとってより大事なものを守っていきたいからです。なぜ、害虫は殺していいのか、実験なら殺していいのか、家畜は・・・なんて疑問もわたしはもはや持ちません。全ていけないことです。ただ、究極的な選択肢として自分の必死に生きる前に立ちはだかるもの(それはあくまでも主観的でエゴです)を振り払うだけです。安易でなく、激情でもなく、本当に胸を張って出した結論ならば、愛するペットのために隣人を殺すことも法を犯すこともアリだと本音では思います。ただ、できるかぎりわたしは今の社会システムや法の遵守というものを愛し、敬意を払っていきたいと思っているのです。

法がわが子を奪うなら、わたしは法を犯すかもしれません。昔道徳の時間にそういう授業をした先生の話を聞いたことがあります。そこからどういうことを考えさせるかが道徳の時間で、結論はないと思います。

本当に長文になってしまって、とりとめないですが、以上がわたしの考えです。
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何かの本かHPで読んだのですが(残念ながらリソースは


忘れてしまいました)、私たちはご飯を食べる時に
『いただきます』といいますよね。

この言葉の語源は、(他の命を)いただきます、ということだ
そうです。

人間が無目的に進化した存在なのか、それとも何か偉大な
存在によって造られた存在なのかは質問者の方に考えて欲しい
のですが、一つだけ言えることは、人は動物や植物など、
他の生命から命を貰って生き長らえる生物だということです。

だから私たちは、他の存在から命をいただいていることに
感謝し、そして人や環境を大事にすることで恩返しをして
いくことが大事ではないか。そう考えています。

この回答への補足

返答遅れて申し訳ありません。
返答のみ、簡潔に答えさせていただきます。
>人間が無目的に進化した存在なのか、それとも何か偉

私は、偉大な存在によって造られたとは思っていません。無目的の意味がわかりませんが、少なくとも私は、DNAを信じても神仏を素直に信じる者ではありません。

補足日時:2003/09/19 12:45
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こんにちは。

道徳的観点より本当に思っている事を
書かせていただきます。
道徳とは生活環境(しつけ)によって習慣の中で
備わっていくもので、なっていないとその成長は停滞します。

産む時、出血多量や胎盤硬直や色々な危険が
ある可能性も知った上で命と引き換えに赤ちゃんを
体内で育てます。その「大切や」「愛おしさ」を
十分に感じて、周りからの愛情も受けて育てば
そもそも人を殺めたいと思うでしょうか?
自らの命を容易に絶ちたいと思うでしょうか?

犬は生まれてしばらく兄弟共に噛む力加減を学びながら
大きくなります。その環境が十分あった犬は
大きな怪我をするほど噛むことはまずありません。

ペットを殺す事ができる?野良犬を殺す事ができる?
コレについては否定します。できないからです。

私人間は他の動物と違い体内でビタミンCを
精製する事ができません。
日々生きる分に必要な栄養素を摂り授かった命を
十分生きようとしています。

人を殺したいと思うのですか?自分が死にたいと思うのですか?
思うというなら、自分を取り巻く環境に原因があると思います。

小動物の発している言葉(伝達手段)を私は受け止める事が
できません。よって、意思の疎通は十分ではないです。
自ら意思の疎通が取れるペットや野良犬などは
愛着が沸き殺そうとは思いません。

その他小動物は自らが生きていく上で必要であるなら
殺生します。小動物とはいえ、対象によっては
人の生命を脅かすからです。

今ある自分は、自分の両親が築いたもの。
家庭をもったり、独身で自ら何かを成し遂げて、
やっと自らが築いていくもの。
幼少の頃の交友関係や信頼なども、まずは
自分を支えてくれるものがあってこそ正常に成り立つものです。

私自身順風満帆な家庭環境であったわけではありません。
昆虫をその生態を知るために標本にしたこともあります。
それはその先へ繋がると信じるものがあるから。

人を殺す 何かを殺生する ただ端的に
そればかりにだけ脈絡もなく考えても導き出せるものは
何があるのでしょうか?そして何が欲しいのでしょうか?
まずは小学低学年の子に今ある家庭の幸せを
十分に感じ、楽しませ両親の家庭を築いていく苦労や
その充実感などを説くのが遅いようで一番
しみこむと思います。
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こんにちは。

#3です。
レスに感謝。

>法や、ルール、社会常識以外の、道徳か何かで解決出来る可能性が0%ではないことと、希望的観測を持っているのですが・・・

なるほど。よくわかりますよ。私も「道徳」たるものは必要だと思います。というか、むしろあなたのいう通りなのですよ。
みんな「道徳」から命を奪うのは良くないといっているのです。しかしこの「道徳」というのが曲者なのです。現在の「道徳」これ自体があなたの嫌いな建前と化しているのですよ。

そもそも「~をしてはいけない」なんてルールはするやつがいるからできるわけですね。そしてそのルールが一般化するためには(それが明文化するかどうかは別問題です)大部分の賛成が要るわけです。

つまり今の日本では誰しもが少なくとも「ムダに命を奪うこと」は良くないと思っているわけですね。あなたはこれが人間の「道徳」から来る必然的なものではないか、だとしたら現在の「人間の命だけ」大切にしている状況は異常ではないか、ということなんですよね?

わたしはこのことに対し、あえて言いましょう。
この「命は等価値である」という「道徳」は何の根拠もなく、現実を無視した建前である、と。
つまり、「命は等価値」と何の根拠も言ってるやからは所詮、建前をほざいているだけなんですね。道徳というのは時にこのような飛躍を見せます。仲間内で望ましいこと、人間社会で望ましいことがすべての生物社会にも適用すべきだと。
例えばクモの巣にかかっている昆虫を助けていいことをした子供のようなものですね。生物社会をしらないからこそ、命という仕組みがわかってないからこその行動なんですね。

命は等価値という道徳は現実の命というものがどうなりたっているかをしらない人たちが無責任に言っている「道徳」に過ぎないんです。

わたし達が言えることはせいぜいが無駄な殺しはしないということぐらいなものであります。そして人を殺していけないのは社会の構成員として、間違っているからだということです。
ただ、子供という、社会の構成員には完全になっていない状態に対してはわかりにくいだろうから殺してはだめと建前を高圧的に押し付けるのでしょう。
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>何故、殺人はいけないのに、殺生には極刑がないのでしょうか?



人類がこの地球の支配種族であるからと思います。

生命体には進化し、自分たちの種族を残して繁栄させていく事がプログラムされていると考えています。人類に敵がいなくなった現状で、更に進化と淘汰をする為には、人類同士で争うしか方法がなくなってしまった状態なのでしょう。

しかし、全面的で無制限に争うには、人類の力が大きすぎてしまった結果、人類全体が自滅をする可能性まで出てきました。局地的な戦争による殺人は、人類全体の生存に危険を及ぼさない範囲で続いてしまうのでしょうね。

個人的殺人は、その国の支配者が自分たちの社会の繁栄にマイナスと判断している事により道徳、法律で規制をするのでしょう。

支配種族である人類も、無制限に他種を殺戮する事は人類の繁栄にプラスになりませんが、人類の役に立つ場合には、その殺生に対して非難をしません。それはまさに人類が支配種族であるから出来る事です。

もし人類を超える種族が登場し、人類の繁栄を犯した場合には、その新しい種族と妥協して生きるか全面的に戦うかの選択になるでしょうが、相手が好戦的ならばその種族の殺生は人類にとって善でしょう。

>なぜ、人を殺してはいけないかを、上記の視点からすごく矛盾を抱えて悩んでいる、小学低学年の子に分かるように教えてください。

人は環境、教育で変ります。現在の日本人の常識が、世界の常識とは限りません。日本人同士の大人でさえ考えが違います。ましてやイスラム世界に生まれた子供、アングロサクソンでキリスト教徒の子供、ユダヤ教の洗礼を受けた子供、仏教、儒教の影響があり、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の考えがまだ生きている日本人の子供等に共通に説得力を持つ話は出来ないでしょう。

>どの立場

理科系の職業を持つ社会人ですが、一日本人としての立場です。
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道徳心の観点から見たいということですが、


それならばこの問いは、
「何故、殺生は善くないのか」と成ります。
「いけないのか?」では、それは許可の如何を問題にしており、その背景にはシステムがあることが分かります。殺生は何故許可されないのか?に、道徳心から答えるとなると、それは善くないからと成ります。
なぜよくないのか。
これが問題です。
 
殺生をして、真に益があるのか?
自殺をして、真に益があるのか?
こういう話にもなります。
益を求めないことは善くないか?
となると、べつに、求めなくても悪くないのです。
求めることが、いいとは限りませんが、
倫理では、真を求めることは善しとされます。
また、美を求めることも、善しとされます。 
善いというのは、それに赴けということです。 
 
殺し乃至殺人が、恨みを晴らす、恨みの苦しみから逃れるため、そのような動機ならば、それは善くありません。また恨みを生むからです。
  
それは、一時の状態に心を大きく左右され、結果、道を踏み外してしまうということです。
これが、道徳です。
道徳は、善き人間の道があるのだと教えます。
それを外すと、必ずしも悪いとは成りません。
しかし、殺生、自殺、これらは悪いとなります。
善き人間は、生命に対する愛が深く、またそれを害するものに対して厳しいからです。
 
善き人間の道が尊重されるには訳があり、善き人間の道の先には、幸福があるという「ふくみ」があります。
  
徳と言うのは人間的善です。
 
「何故殺生はよくないか?」
これよりも、
「何故殺生するのか?」
このほうが、現実的です。
これを道徳心で見てみると、そこに、苦悩が見えてきます。
幸せを望もうとしていたはずの道徳心が。逆にジレンマにより苦悩に陥ってしまいます。
そこには、殺生をしている現実があるからです。
善く生きることは難しいということです。
 
ここで、現実観というものをさらに出します。
その殺生の位置づけの問題でもあります。
これをうまくできると、また新しい世界観で生きることになります。
 

「なぜ殺生はよくないか?」
それは、このように文書化して質問されることよりも、現実に、人の心の判断にゆだねられる、その疑いを抱いたその胸に、答えはあるのではないでしょうか。
子供の頃は、頻繁に、ただ虫を殺して遊んだもんです。ほんとうに、たくさん殺しました。
しかし、不思議と今は、殺すことをためらいます。
あるとき、快感と同時に殺すことに恐怖を覚えたのを思い出します。
それとも道徳教育のせいでしょうか?どちらにせよ、殺したくないのです。
親や教師、他人がこうだといって、はいそうですかというほど、こどもは馬鹿ではないでしょうし、YESを強要することは、子供を馬鹿にします。
 
よくあった問いですが、改めて問い直すことで発見もありました。ありがとうございます。
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このページに参考になるような分析がありますよ、


1と5がそれっぽいです、5から読んだほうがいいですね。

参考URL:http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/majimetot …
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  おはようございます。

#1・#7です。

 お礼、ありがとうございました。
 #7のお礼に疑問を感じたので、再度、書き込みさせてもらいます。

 >それ以上と言うのは、ヒンズー教が多数を占める国では、牛を殺せば死刑です。そういった意味で、人以上に評価しているところもあるということです。

また、ネズミに・・・と言うのは、その所有者のの思い入れが、人と同じくらい、それ以上にあれば、人と同じように重要な存在となるという意味です。

 ヒンズー教徒は牛が生活に必要不可欠なので、牛を高く評価して、その他の存在ではなく、牛を人間の同族と見なしています。
 また、ネズミに特別な思い入れがある人なら、ネズミが生命の危機に直面したら、ネズミを守るハズです。(例えば、ネズミが病気になれば治療するなり医者に診せますし、ネズミがネコに襲われていたら、ネコを追い払うハズです)

 だからこの2つの例は、私が#1で書いた「同族は守るべき存在で、それ以外は必要があれば命を奪っても仕方ない」という原則に沿っています。何に矛盾を感じるのでしょうか??

 一応、念の為に書きますが、「私は人間は生物学的に同じ人間にしか同族という認識をしない」などいう事は一言も書いてません。

 人間が“同族”だと思えば、牛もネズミもカブト虫もミャンマーオオツノガエルも“同族”なのです。
 
 私の友達に、ブドウ球菌の研究をしている人間がいます。彼は「俺が培養したブドウ球菌を勝手に死滅させた奴には殺意を覚えるよ」と言っていました。
 私にとっては存在すら認識できないブドウ球菌も、彼にとっては立派な“同族”なのです。

 >この世は、事実は小説より奇なりだと思いませんか。

 思います。その通りです。本当に現実や事実というものは、私の想像もしない事を次々に教えてくれます。
 ただ、tihiro_tさんの言う様に「実際の世界は、マスコミの情報以上に、例外ばかりで混沌としている世界ですから」という考えは起こりません。
 物事には必ず法則性があり、結果には必ず原因があると思います。混沌としていと感じるのは、ただの思い込みです。自分が法則性を発見できず、事象の整理
ができなので、「混沌」だと思い込んでしまうだけです。

 【真に混沌としている世界はどこにもない。探せば、必ず原因はある。世界は理解する事ができる存在だ】

 私だったら、上記の言葉を小学校低学年の子供に説明する時に付け加えますね。
 どんな答えが返ってくるかは、その時にならないとわかりません。だから、楽しみです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

>「私は人間は生物学的に同じ人間にしか同族という認識をしない」
勘違いしていました。すいません。

脱線していますが、一応気になったので・・・
>>【真に混沌としている世界はどこにもない。探せば、必ず原因はある。世界は理解する事ができる存在だ】
>私は理系の人間で、こう考えたいですが、なかなかそれで解決できないのがこの世界ではないでしょうか?ビックバーンや、ひも理論などどこまで考えても答えはでていません。
今回も、”スーパーコンピューター導入も大ハズレ、予想外の冷夏 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030830-00000 …”とあるように、全ての粒子をコンピュータでシュミレーションできたり、物質の存在理由がわかったりするまで、混沌の世界から私は抜けれない気がします。あれほど、信じられていた天動説の否定や、あれほど当てになるニュートン力学ですら、アインシュタインに否定されてしまいました。真に混沌としている世界が解決されるのはまだまだ先の話だと思います。
>「自分が法則性を発見できず、事象の整理ができなので、「混沌」だと思い込んでしまうだけです。 」確かに、極論はそうかもしれませんが、わたしは、まだまだ、原因-結果が結びつかないことがたくさんあって、とてもじゃないが、上記のような文章を受け入れる気にはなれません。悟った先には新たな疑問が生まれるともいいます。コレだけの意見、考えられ方が寄せられる状況一つみても、殺生や道徳についてもまだまだ混沌としているというのが、今出せる私なりの結論です。

ま、故に面白い世界なのですが・・・

お礼日時:2003/08/31 12:47

>何故、殺人はいけないのに、殺生には極刑がないのでしょうか?


 
死刑囚を刑にかける人は、その人の人格で行動しているのではなく、機械的な意味で、システムの一部として、稼動しています。
だから、実際には死刑囚は人の手で殺されているのですが、そのうわべの意味は、人が殺したのではなく、システムが稼動したとなるのです。
 
動物実験も同じで、実際には、人の手でそれは行われているのですが、うわべの意味は、システムの一環として、それは現象として起こっているのであり、殺したのではなく、結果的に犠牲になっているということです。
 
そこで問題ですが、
ある人が、戦争で人を殺したとします。
これは、死刑囚を、執行人が処するのと同じで、戦争というシステムの一環の動きですので、罪は問われません。
現実には、ある人の手で、人を殺しているのです。
 
ある人が、ある人を殺したとします。
それが、なにかの因果があったにせよ、ある人が、ある人を殺したという現実しかなく、そこに、人間の作り出したシステムが見出せない場合、その人は罪を問われます。
実際には、社会システムの弊害として、自殺者の増加や、殺人が起こっていたとしても、その罪は、その実行人に問われます。
(ですから、人は、特に近代からですが、システムを断罪する、また、システムを監視しようと努力してきました。その系譜は受け継がれていますが、力はまだまだ弱いといったところでしょうか。期待はもてます。)
 
なぜなら、そんなことは、社会システムは認めていないからです。
 
話を続けます。
 今日、私は、レモンの葉を食い尽くした幼虫を、今にもさなぎになりそうな、でかくなった数匹を残して、別の場所に移しました。
おそらく、移された幼虫達は死ぬでしょう。
私が彼らを殺したということになります。
木にはもう、葉がほとんどなかったので、ほっといても死んでいたかもしれませんが、事実としては、私が、死に追いやるような事を、彼らに対して行ったのです。
 
これは、殺生です。そうせねば、レモンになった二つの実が育たないとはいえ、私は殺生をしたということになります。
しかし、罪は問われません。
社会システムは、そのことを容認しているからです。
システムは、基本的に、人間の利益と思われるものに、重きをおきます。
また、システムの外での出来事で、システムはそれに気がつかないということも、大きくあります。
 
だから、私はこのことで極刑にかかることがないのです。
 
>殺生がいけないのは、なぜか?
生きているものは、死のうとしているのではなく、生きようとしているからです。
 
生きることに反対することが、殺生だからです。
 
いかに、自分を生かすためとは言えどです。
 
では、生きることに反対することはなぜいけないのか?
という問題ですが、
 
それは、我々が、生きていたいと、思うからです。
それだけです。
あなたは死にたいですか?
 
多くの死にたい人は、ほんとは苦しみたくないだけであり、苦しくなければ生きていたいのです。
 
つまり、苦しさを除くことが生きることをより可能にするわけですが、それまでは苦しいでしょう。
 
苦しいことは何故よくないのか?という問題もあります。
何故嫌と思うかですが、苦しいことは、生き難いことを意味するからです。
しかし、苦しみによって成長し、その後生き切ることができたということも、あるでしょうし、苦しみによって、ある生への方向性が生まれていることは、認められるわけです。
 
ですから、苦しみを全否定することは、生の序段を否定することになります。
 
小学生低学年の子には、
「生きていたいと思うなら、生きているものを殺しては駄目だ。それは、生きることに反対してるから。」
とか、ちょっと難しいけど、続けるなら、
「だけれど、そのことで、自分を生かしているという現実もある。だから、むやみに殺生をしてはいけない。どうしても必要なときにだけ、自分を生かすということで、それは仕方ない。それは、生きる苦しみ。
生き物を殺さなければ生きられないほど、その時は弱っているということです。」
 
何故生きたいと思うのか?と、質問が来た場合、
「何でだと思う?」と、聞き返してから、
その返事により、後手を考えればいいです。
聞き返されたほうの立場、よくある現代の子供の気持ちになって答えてみると、
「楽しいから」
ちょっとシリアスな、変わった子どもになってみると
「・・・・だってね、かわいそうじゃない?」
ぱっぱらぱーな元気な子になってみると
「あはは、変な顔!」
 
真剣に答えると、馬鹿を見ることもあります。
  
ついでに、ミラクルな少年少女になってみると、、
「他にどうすんの?」(自分で聞いときながら)
とか
「別に、思いたくて思ってるわけじゃない」
とか。
「いつか死ぬから」
はぁ。 
「わたしね、ほんとはそう思ってないかもー」
え?そうなの?じゃあホントはどうなの?
「ほんとはね、、、誰か知らない人が知ってる!」(幼稚園並み)
君のことだろ?
「・・・知らなーい」(自分のことなのかどうかも知らない)
 
とか、あるかもしれません。ホントの子供なら、どんな答えをしてくれるか、楽しみですね。受け答えの前に、話がすすまないということはあるかも。

この回答への補足

長文の回答いただきありがとうございます。

システム
>確かにそうだと思います。ただ、道徳心という角度から見たいと思っていますのでコメントは差し控えさせていただきます。


>生きることに反対することはなぜいけないのか?
>という問題ですが、  
>それは、我々が、生きていたいと、思うからです。
>それだけです。 あなたは死にたいですか?
貴方の云わんとしていることはなんとなく感覚的に分かります。また、「生きていたいと思う生物に、他人が反対することはいけないこと」と言うふうに言い換えるることが出来ると思いますが、それでも、私にはこの文章のつながりが理解できません。また、これだと、自殺は別に問題ないということにもなりかねません。


>「わたしね、ほんとはそう思ってないかもー」
ではなく、
「わたしね、ほんとは死にたいと思ってるかもー」
と返答されたら・・・
小学低学年ではないかもしれませんが、昨今の若年者のこの世の無常さ?に退屈して死んでしまう人がいますが、解答に、こう答えるかもしれません。私の中にも、この解答が全くないと否定することも出来ません。と言うか、周りに私を愛してくれる人が居なければ自殺していてもおかしくないと思うことも否定しきれません。

蛇足ですが、
>でかくなった数匹を残して、別の場所に移しました。 おそらく、移された幼虫達は死ぬでしょう。
殆どの幼虫は多分死にません。あいつら恐ろしく元気ですから・・・(私のハーブ畑の青虫さんたちがいい例です^^;
有機農法の人は土や、ゴミ捨て場に落としても、なかなか死なないから、必ずつぶすなどの方法で、確実に殺します。

補足日時:2003/08/31 12:24
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