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「大鏡」「栄花物語」などに出てくる藤原安子について調べています。
村上天皇の中宮(皇后)であること、大変な子だくさんであったことなどは
ある程度わかったのですが、

1.内裏における彼女の住まいがわかりません。
父親の格から言っても恐らく弘徽殿ではないかと思われますが、
その裏付け資料を知りたいです。

2.東宮の添伏もおそらく彼女であったと思われますが、
その際はやはり昭陽舎(梨壺)に住んでいたのでしょうか?

3.また、その他彼女に関することを。エピソードも、「芳子にかわらけを投げつけた」「関白は兄弟の順に」以外に何かあれば。

なお、当方は国文学選考ではありませんので、素人でもわかるようなご説明がありがたいです(^_^;)

A 回答 (3件)

こんばんわ。


「平安大辞典」によると、安子の住まいは藤壺→梨壺と変わっているようです。ですから、最初は藤壺女御と呼ばれていましたが住まいが変わったので梨壺女御と呼ばれるようになったようです。弘徽殿には四条御息所と呼ばれていた女御藤原述子(父・藤原実頼、母・藤原時平娘)が住んでいましたが、村上帝即位後1年で疱瘡により亡くなってしまいます。

余談になりますが、他の女御たちの住まいは、
承香殿→徽子女王(父・重明親王)天暦3年に女御となる
麗景殿→荘子女王(父・代明親王)天暦4年  〃
宣耀殿→藤原芳子        天徳2年  〃
登華殿→藤原登子(安子の同母妹)重明親王継室であったが、親王在世中から密かに村上帝の寵を蒙る。親王の崩後後宮に入り寵愛を受け、登華殿を局とした。崩後尚侍に任ぜられたという。

以上が、村上帝の後宮の説明になります。帝には他5人の更衣がいます。
安子についてですが、
天慶3年4月、婚儀。
  8年正月、従五位上。
  9年5月、女御・従四位下。
天暦10年4月、従二位。
天徳2年10月、立后(弘仁以来、東宮妃の皇后となりし例なし)
康保元年4月に崩じ、山城国宇治郡の木幡に葬らる。

「平安大辞典」ですが、これが大学時代にコピーした資料なのでどこの出版かわからないのですが、うぐいす色に金箔がちりばめられたような豪華な装丁になっていて、上下巻と資料(斎宮・院、后妃・女官表等)という構成になっています。もしかしたら一般の図書館よりは大学などの専門機関に置いてそうな気がします。

これだけしか情報提供できなくてごめんなさい。少しでもお役に立てれば何よりです。

この回答への補足

よい文献を見つけまして、回答が見つかりました!
参考までに。

「平安京提要」角川書店 平成6年
角田文衛 総監修

天慶3(940)年4月19日飛香舎で婚儀
天皇即位後女御となりすぐに梨壺へ。

その理由として、当時清涼殿新造中で、村上帝は麗景殿に起居していたため、とあります。

そして、清涼殿完成後、村上帝が清涼殿に移動するに当たって、
彼女も藤壺へ移ったようです。

以上の出典は「日本紀略」とあります。

補足日時:2002/09/11 18:08
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「平安大事典」ですかー。心ときめくタイトルです。
大学図書館…今はもう縁のないところですが、買うとしたらたぶん何万円とするんでしょうねぇ……。
ちょっと大きめの図書館に行ってみます(^O^)
それにしても、私の認識として、「梨壺」というのは東宮&その妃というイメージがあるので、
終生「梨壺」というのが意外でした。

お礼日時:2002/09/05 17:40

(1)


 村上天皇の東宮時代に藤壺で婚儀しているのは良いのですが(『西宮記』)、
  『九暦』天慶9年10月28日条「是依梨壷(安子)奉仕也」
  『九暦』天暦2年8月19日条「自上東門令入、先参藤壷(藤原安子)」
 からすると、在所は、梨壷→藤壷の順だと思います。

 天徳年間に内裏が焼亡した後は、弘徽殿にいたという話も聞いたことがあるのですが、ソースは不明です。
 なお、『大鏡』師輔伝に「弘徽殿にはこのきさき(安子)」とあるのですが、これは「上の御局(清涼殿にある控えの間)」のことなので関係ありません。

(2)

 良くわかりません。東宮の殿舎に関する質問の方の、私の回答の(1)後半部を参照してください。

(3)

 『大鏡』や『栄華物語』にあるぐらいしか伝わってませんからねぇ。

 村上天皇が妹の登子を入内させたいと打診したのを強硬に拒絶した話とか。

 『大鏡』によれば、人間的には優れていたようです。政治的センスもあり、村上天皇も実は悪感情を抱いていなかったように推測されるところ、芳子や登子に関する逸話も、出来た女性の可愛いエピソードなのしれません(←完全に妄想)。

(4)
 ところで、No.2の方の「平安大辞典」とは「平安時代史事典/古代学協会・古代学研究所編」のことではないでしょうか。
 だとすれば、角川書店から三冊で\50,485ですが、おそらく古本でしか手に入らなくて、古本だともっと高い・・・。

この回答への補足

よい文献を見つけまして、回答が見つかりました!
参考までに。

「平安京提要」角川書店 平成6年
角田文衛 総監修

天慶3(940)年4月19日飛香舎で婚儀
天皇即位後女御となりすぐに梨壺へ。

その理由として、当時清涼殿新造中で、村上帝は麗景殿に起居していたため、とあります。

そして、清涼殿完成後、村上帝が清涼殿に移動するに当たって、
彼女も藤壺へ移ったようです。

以上の出典は「日本紀略」とあります。

補足日時:2002/09/11 18:09
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
父親の日記からの引用ですね。
1に関しては、天慶は朱雀帝、天暦は村上帝ですから、確かに梨→藤、という感じがしますね。
上の御局といいますと、かわらけ事件ですね!
3についても、大鏡のエピソードですね!
平安時代史事典は、絶版のようですね。今日古書店を見てきました。
友人の妹が持っていると聞きましたが、そんなにご縁が深くないので借りれない……。

お礼日時:2002/09/09 20:20

個人のHPですが,参考になるでしょうか?


出典が明らかでないのですが,他のHPでも同じ殿舎でしたので間違いはないかと思います.
飛香舎(藤壺)で添い伏し,その後昭陽舎(梨壺)に移ったものと思われます.

参考URL:http://homepage1.nifty.com/rami/murakami.htm

この回答への補足

よい文献を見つけまして、回答が見つかりました!
参考までに。

「平安京提要」角川書店 平成6年
角田文衛 総監修

天慶3(940)年4月19日飛香舎で婚儀
天皇即位後女御となりすぐに梨壺へ。

その理由として、当時清涼殿新造中で、村上帝は麗景殿に起居していたため、とあります。

そして、清涼殿完成後、村上帝が清涼殿に移動するに当たって、
彼女も藤壺へ移ったようです。

以上の出典は「日本紀略」とあります。

補足日時:2002/09/11 17:55
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この回答へのお礼

素敵なサイトのご紹介ありがとうございます!
そうなると、最終的には「梨壺女御」という呼称となったのでしょうか?
いや、もちろん「皇后」「中宮」などというのがあったにしろ。
引き続き情報提供お願いいたします。

お礼日時:2002/09/03 07:35

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