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今触れたものは、一回性という意味で永遠なのでしょうか?
(その瞬間はそのときに全宇宙で、すべての時間において一回しか起こらないユニークなことであり、「それが起こったこと自体」は消しようのない永遠…)。

それとも、時の流れの中に永遠に消え去ってしまうのでしょうか?
(そのことを記憶している媒体が多数あったとしてそれは、時の経過とともに劣化してしまう。それに、たとえ劣化せずともそれを理解する主体が変化してしまうかも。完全に同じ感覚は二度とありえない。というか、永遠に失われてしまう…)

A 回答 (3件)

 


まず、「困っている」というなら、以前の「困っている」という質問に対し、誠実に対応してから、新しい質問を出すべきでしょう。ずいぶん前に考えを回答しましたが、レスがありませんね。本当に「困っている」のでしょうか?

質問するのはこのサイトで自由ですが、答えに対し、応答がないなら、今後、無視する可能性が高いですよ。

質問のことですが、「永遠のいま」という概念があるのです。これはわたしの言葉ですが、かなり普遍的な考え方です。ベルクソンの「純粋持続」などの考えが参考になります。

「ときの流れ」というように時間を考えると、ベルクソンの言い方では、「時間を空間的に表象している、捕らえている」ということになり、これは「時間の本質」を見失う考え方、図式なのです。

「現在」というのは、その都度、一度限りであり、決して同じ「いま」には出会えないという性質があると同時に、「このいま」は、いつまでも同じ現在であるという持続性があるものです。

アウグスティーヌスの言った言葉だと思うのですが、「過去は記憶」「未来は期待展望」、つまり、現在しかないのです。

哲学的に色々な議論がありますが、おそらく古くから「知恵」の真理として知られるのは、「できごと」は永遠であるということです。永遠であって、一回的なのです。

過去も未来もすでに決まっているのですが、それは空間的に時間を考えた場合です。過去・現在・未来の空間的把握の「時間の流れ」に対し、それはすでに宇宙の運命で決まっているというヴィジョンがあり、他方、この線の形の時間の比喩だと、この時間線に「垂直」方向への、「永遠」へのやむことない、「躍動」があるとも言えるのです。

この躍動をベルクソンは、エラン・ヴィタール(生の躍動)と言ったのですが、多くの宗教や哲学の考えの真髄に、このような「永遠のいま」という時間の真理の把握があるのです。

「パンタ・レイ(万物は流転する)」という古代ギリシアの賢人の言葉は、実は、ハイデッガーも指摘しているように、「立ち昇る自然(ピュシス)」と同じことを言っているのです。

一回的でありながら、限りなく繰り返される「できごと」。ニーチェの永劫回帰の思想は、古代ギリシアの存在の「立ち昇り(ピュエイン)」の考え方に影響されているのです。

このできごとの「記録」が、何かの物質などの「記録媒体」に記録されているはずで、それが消えるかも知れないというのは、時間についての古くからの知恵の洞察からすれば、間違った時間の捕らえ方です。

この問題は、非常に複雑だとも言え、自分で思索するしかないでしょう。ヒントを述べることができても、それを聞く耳がないと、無意味な言葉にしか響かないでしょう。

「いま触れたものは、永遠にある」のです。どこかに記録があるからでなく、存在世界の「全体構造(ホロン)」から、こういうことが出てくるのです。
 
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

asterさんの回答は、とても含蓄があり、示唆に富んでいて、その博識に毎回驚きまた勉強させていただいております。たぶん、asterさんには毎回お礼を書いていると思うのですが、もしかすると忘れているものがあったのかもしれません。そうであったらごめんなさい。あとで、確認してみます。
でも、いつも誠実に回答を書いてくださるので、それを理解するのに少し手間取ってしまうことはご勘弁ください。

で、今回回答していただいた件についてです。
「時間」「空間」ととても把握するのが難しいです。ベルクソンなど過去、大学の哲学の講義で何度も耳にした名前ですが、当時あまり熱心な生徒とはいえなかった私は、ほとんどそれを深めることもなくやり過ごしてしまいました。そんな事も言っていたんですね。今度、時間があったら読んでみたいです。

ちなみに、回答いただいたことを自分なりに解釈すると、「我々は時間を空間的に捕らえている」過去--現在--未来と線状に時間を捉えているという事でしょうか。そうですね。僕らは無意識にそう考えている節があると思います(これは西洋の進化論などに見られる思想の影響でしょうか。古代ギリシアにも輪廻転生(?)のような生まれ変わり「立ち上り(ピュエイン)」の思想があったと気づかされました!/考えが深くなくてゴメンナサイ)。でもこれ、本当にそうか。というと、疑問がやっぱり生まれてきますね。ウム…。わかりません。

過去/現在/未来の時間の流れが、もう既に宇宙のヴィジョンで決まっているという考え方が面白いです。
まだ、完全に認識できてはいませんがもっと深く理解できるようになりたいと思います。

お礼日時:2002/07/04 19:07

「今」触れたものは、「一回性という意味では永遠である」とも、「二度とは同じ感覚はない/永遠に失われてしまう」とも言えるのではないでしょうか。



つまり、2つの性質は相反するものではなく、「今」にはその両方の性質が無理なく同居している。と思うのです。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

そうですね!
そうか、考えてもいませんでした。2つの性質は同居しているんですね。

光の粒子と波の性質と同じですね。立方体が見る角度により形が変わるのと同じですね。

お礼日時:2002/07/04 18:23

●わたし最近思うんですけど 死ぬ時ほんんとうに主人との愛を感じて


 感じたままに死ねるんだろうか?と・・・。
 ほんとうに主人とはなかよしですし わたしたち以上に仲のいい夫婦は
 見たことがないし 聞いたこともありません。でも どれだけ抱き合っても
 一抹の嘘っぽさがあるんですよね・・・。この感覚を表現するのは むずかしいです。
 でも Evianusさんの文章を拝見して なんとなくEvianusさんならこのわたしの
 感覚をわかってくださるかなあ・・・とおもいました。
 なぜなら 永遠なのか消失するのかわからない少しの不安感みたいなものに
 感覚が近いからです。
 極論すれば 愛がなかろうが 苦しかろうが 死ぬ時はどうでもいいって
 自分を投げ出す覚悟はあるつもりなんです。
 主人の愛を胸に抱いて死ぬのと 全てを投げ出してマッシロで死ぬのと
 どちらにしようか結論は出ていません。
 永遠なのか消失するのか なんかわたしの死の考察ににてるでしょっ・・・。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

本当のことってなかなかわからないですよね。
いつも探求しようとしていますが、これがまたなかなかつかまらない。

僕は哲学や特定の学問、技術の専門家ではない一般の学生です。が、僕が思うには、あるものを求めていて、満ちたり足りているとき現実とあなたとの間に隙間ができ、それをあなたは嘘っぽさと感じているのではないでしょうか。余裕ですね。
だって、それがもう必死の形相で、数々の試練を乗り越え、やっとのことで手に入れた幸せで、それが消滅の危機に瀕している(例:一方の死が迫っている)。というドラマのような波乱万丈な状況であり、すぐ後ろに自らの危機が迫っているなら、嘘っぽく生きている余裕なんてないと思うからです。
でも、そんな切迫した状況なんてほぼ現実世界に(特に日本において)起こりえないし、余裕もいいんじゃないですかね~。(勝手な想像です。変なこといってたらごめんなさい。)


でも、僕の最初の仮定にあるようにあなたとあなたのご主人が愛し合った現実は過去に実際に起こった事実であるし、それはもう消しようのないものだと思います(遠い過去からすべてのものを見て、記録している神のような主体があるとしたら、あなたの過去はすべてそこに既に記録されてしまっている)。あなたが、ご主人の愛を胸に抱いて死のうと、すべてを投げ出して真っ白で死のうと、もう過去は変えようがないと考えて見たらいかがでしょう。

なんか、運命みたいですね。


誰でしたっけ?すべてのものは「~(経典などの名前、忘れてしまった…)」に書かれている。と言ったのは…。

お礼日時:2002/07/04 18:20

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