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聖書を読んでいて思ったのですが、
弟(アベル)を殺したカインは、神に追放されましたよね。
それなのに、
「私がさすらい人になれば、出会った誰にでも殺される」
と云ったカインに、神が、
「カインを殺す者は7倍の復讐を受けるだろう」
と云って、カインに、殺されないようにしるしをつけたのは何故なんですか?
殺されてもいい…とゆうか、仕方ないと思うんですが…

出来れば、宗教学見地からのご意見を伺えないでしょうか。
いえ、個人的なご意見でも良いのですが、
「なるほど!」と納得出来るようなお答えを、ぜひ宜しくお願いいたします。

A 回答 (6件)

いろいろな見方があるかと思います。



出エジプトの時代に、ヤハウェの神は
『だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない』
という律法をイスラエル人に与えますが、それまでは殺人
についての明確な戒めはありませんでした。

ですので律法以前の時代においては、刑法の規定(現代的
に述べると)がないので、裁量的な判決を下していたので
はないでしょうか。


カインはアベルを殺してしまいますが、それに対して
『あなたは地上の放浪者となるでしょう』
と神は判決を下します。

その後で
『わたしを見付ける人は、だれでもわたしを殺すでしょう』
とカインが神に訴えると、
『だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう』
と答えます。

これは「あなたは死刑判決を受けたのではないから命を取
られることはないですよ」という確証を与えたのだと捉え
ています。


この神の「情状酌量」については、もっと後に出てくる
「ヨナ書」とかを読むとわかりやすいかもしれません。
ヨナ書では、ニネベの町に対して神が審判を下そうとし、
預言者ヨナを通して町の滅亡をニネベの町の人に宣告しま
すが、ニネベの町の人が罪を改めた時、神は思いとどまっ
てニネベの町を滅ぼすのを止めました。
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この回答へのお礼

カインが、自分は自分を見付けた誰かに殺される、と思っているということは、
そのくらいの罪の意識はあると思うんですが、
そのような戒めがなかった(適応されなかった?)、つまり、情状酌量が認められたということは、
神は、自分がカインにしたことを、少しは悪いと思ってる、ってことなんでしょうか。
自業自得を背負う人って多い気がするのですが(ヤコブとかヨセフのお兄さん達とかも…)、
何だか皆、本当の悪人ではなく何らかの理由があるので、
少しでも救われるとホッとするのと同時に、そうなる前に防ぐことも出来たんじゃないか、
なんて考えてしまったりもします(笑゛)

未だレビ記の途中までしか読み進んでないので、続きも余計に楽しみになりました。
素敵な回答を、有り難うございました。

お礼日時:2002/06/27 18:01

>カインが、自分は自分を見付けた誰かに殺される、と思


>っているということは、
>そのくらいの罪の意識はあると思うんですが、
>そのような戒めがなかった(適応されなかった?)、つ
>まり、情状酌量が認められたということは、
>神は、自分がカインにしたことを、少しは悪いと思って
>る、ってことなんでしょうか。

そうですね。私もそう思います。


>自業自得を背負う人って多い気がするのですが(ヤコブ
>とかヨセフのお兄さん達とかも…)、

多いです。(笑)
旧約聖書には因果応報といいますか、善なる行いをすれば
よい報いがあるし、罪を犯せば罰が下るという内容の話が
多く出てきます。
因果律が成立しない時もあるんですけどね。
(そういう時は、すべては神のみ心のままにと言うことにでしょう)


>何だか皆、本当の悪人ではなく何らかの理由があるの
>で、 少しでも救われるとホッとするのと同時に、そうな
>る前に防ぐことも出来たんじゃないか、
>なんて考えてしまったりもします(笑゛)

ヤハウェの神は人間に警告をしたり、ああしなさい・こう
しなさいと命令を下すことはありますが、人間の行いに直
接関与することは、ほとんどありません。
そして、人間の行為の結果をみて、審判を下しています。

人間の行動をむやみに束縛しないところは、人間の自由を
尊重してくれているのかな、なんて思ったりもします。
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この回答へのお礼

私はキリスト教じゃないのですが、神様というものは、絶対的に正しいものだと思っていたので、
聖書を読んで驚くことも多々あります。
ノアを救ってくれたのは神ですが、カインのように、自分の不備で過ちを犯させてしまったり…
なので、今回のことで、その見解は改めなければならない…とまではいきませんが、
そういう一面もあるんだな、ということは解りました。

人間は、知恵の実を食べたときから、神に認められた存在だってことなんでしょうか。<束縛云々

お礼日時:2002/06/28 14:41

 


これはたいへん興味深い問題で、個人的に考えてみたく思います。

まず、この話の経過の背景には、「農耕民」と「遊牧民・牧畜民」のあいだの社会的・歴史的な「対立」あるいは「緊張関係」が背後にあるのだということが、まず言えます。ただ、それでもって説明が付くかというのが難しいのです。

カインに神が述べた「七倍の復讐」の「七」という数字は、「神秘数」で、「聖書」の他の箇所を見ても一杯出てきます。七が神秘数で吉兆数だというのは、東西に関係しません。七福神とかいうのも中国にあります。

昔、これを読んで気になったこと、疑問を抱いたことは、カインの子孫である、レメクという人物の言葉です。彼は、二人の妻を持ちますが、二人に向かい、奇妙なことを云います:

>わたしは受ける傷のために、人を殺し
>受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す
>カインのための復讐が七倍ならば
>レメクのための復讐は七十七倍。
  (「創世記:4:23-24」口語訳聖書・日本聖書協会)

カインのための七倍の復讐よりも、レメクのための七十七倍の復讐の方が、わたしには不思議であったのです。七倍の復讐は神が云ったもので、神の意志から発したものでしょうが、レメクの七十七倍は、レメク自身が二人の妻に、自分で宣言したことです。

カインに対する神の「弾劾」は、よく読んでみると、「地が血を受けて叫びを発している」と神は述べています。また、「地はあなたのために、もはや実ることがない」とも甥っています。神がそう罰を決めたというより、「地」に呪われた者としてカインの罰が定まったとも解釈されます。

アダムとヘーウァを弾劾した時の神は、カインの場合とは別に、みずから、二人に罰を与え、追放処分を宣言します。

この違いは何かということが問題になります。

また最初に、「農耕民」と「遊牧民」の対立あるいは文化的緊張関係の反映と云いました。神はアダムにエデンの土地を、「耕作」させています。動物を使って遊牧・牧畜をさせている訳ではありません。そして、アダムに対する罰の言葉は、「地はあなたに対し、いばらとあざみを生じ、あなたは野の草を食べる」というものです。

つまり、アダムの罪によって、地は容易に耕作に対し豊饒を齎さない、むしろ不作があるだろうと、神は宣言しています。アダムとヘーウァは「農耕民」になります。

他方、カインとアベルになると変化が起こります。カインは「土を耕す者」で、アベルは「羊を飼う者」です。アベルは牧畜民・遊牧民だとも言えます。原象徴的人物なのです。

牧畜民にとって、家畜は殺して肉を取るものだとも言えますから、「血を流す」ことは、それほど禁忌だとは言えません。しかし、農耕民にとって、「血を流す」ことは、禁忌だとも言えます。

「血」とか「精液」は、両義的な意味を持っています。それが「血に注がれる」時には、まさにそうなります。大地の豊饒を目的として、聖なる意味で、血や精液を大地に流す儀式があり、他方、儀式に則らないで、そういう行為をすると、地は「穢れます」。

アダムとヘーウァの場合は、蛇が誘惑したのだと云っても、神はこの場合、「中立」であるとも言えます。しかし、カインとアベルの場合、カインの捧げものを神が受け取らなかったのが、二人の争いの原因ですから、神は、殺害について「中立ではない」と言えます。

何故、神はアベルの捧げものを受け取り、カインのそれは拒否したのか。これは、想定になりますが、ユダヤ人は、最初の基本的な生活形式は、遊牧・牧畜でした。その前には農耕だったのでしょうが、独立した民族意識を持った時、牧畜の民でした。

遊牧民は、物資に困ると農耕民を襲撃し、略奪を行い、また殺人も行います。それは「罪ではなく」、遊牧民の生活の方法だったのです。家畜を殺すことで生活が成り立つように、農耕民を襲って略奪殺人を行って生活が成り立つという原理がありました。

遊牧民にとっては、必要なら、略奪・殺人は悪ではなく、許容された行為だったのです。

イスラエル(ユダヤ)の神は、遊牧民・牧畜民族の神だと言えます。そこから、想定ですが、アベルの捧げものを神がよみしたのは、アベルが、神の民だったからだとも言えます。カインは、神の民とは距離があったのだと言えます。

では、アダムはどうなのかと云えば、これは、ユダヤ人が創生神話を拝借した、別の神話に、そういう記述があったのだと思えます。アベルとカインの話になって、遊牧民の神ヤハウェの偏愛が表現されて来たのだとも言えます。

考え方では、農耕民カインには、アベルを殺害する、相応の理由があったのだとも言えます。カインの罪は、大地を血で汚したということです。カインは、神の意志によってではなく、血の呪いによって、大地を流浪する者となる罰を受けたのだとも言えます。

「聖書」には明確にそう記されていませんが、カインには「正当性」があり、神もそれは認めざるを得なかったのでしょう。神はそこで、罪に怯え、自分も他人に害されるのではないかというカインに向かい、「あなたを害する者は赦されない」というバランスを述べたのでしょう。

あるいは遊牧民同士の争いなら、血に対し血の復讐なのかも知れませんが、農耕民カインが、正当な事由で人を、弟を害したことについて、「地の呪い」は避けられない、しかし、それでもって、カインを殺してよいということにはならない。カインを害する者は、正当な事由がないので、その罪・復讐は大きなものとなるだろう、と述べたのだと想像できます。

それでは、カインの子孫レメクの七十七倍の復讐とは何かです。レメクは三人の男子の父親です。彼らは:

妻アダの子ヤバルは、「家畜を飼う者」の祖先
アダの子、弟ユバルは、「笛や琴を執る者」の祖先
妻チラの子トバルカインは、「刃物を鍛える者」

とこうなります。ここで、「牧畜」「音楽・芸術」「戦い・戦闘・鍛冶技術」という文化的要素が展開したことが明らかになります。レメクの言葉は、「自分たちを害する者」に対する復讐は、七十七倍だというものです。

カインによるアベルの殺害は偶然のもので、しかもカインには正当な事由があったと考えられると先に述べました。レメクの時代になると、社会が複雑になっており、略奪や殺人が横行していたのだとも考えられます。

正当な事由なく、自分たち一族に害を成そうとする者は、意図的な者たちであり、それらの者への対抗は、カインの偶然の事件の比ではなく、その11倍、つまり、七十七倍だという宣言は、「報復法」の原型を主張しているのだとも言えます。

また、レメクの息子たちは、牧畜者、音楽家、鍛冶・武器製造者で、単なる農耕民ではなく、遊牧・商業・戦闘にも関わる実力を持った一族で、襲って来るなら、七十七倍の報復をするぞ、と述べているのだとも解釈できます。

以上で、レメクの七十七倍の復讐まで含めて、考えて見たのですが、もう少し追加します。

それは、アダムの子は、「聖書」に記されている所では、三人で、カイン、アベル、セツです。アベルに子孫はなく、カインには子孫があります。しかし、「生き延びた人類」は、セツの子孫のノアの子孫たちです。カインの子孫は、大洪水で滅びたとも言えます。

ただ、系図を辿ると、奇妙な記述というか、一致があります。

アダム-カイン-エノク-イラデ-メホヤエル-メトサエル-レメク-三人の息子(文化の祖先)+娘

アダム-セツ-エノス-カイナン-マハラレル-ヤレド-エノク-メトセラ-レメク-ノア-三人の息子(ハム・セム・ヤフェテ)……

念のため、ヘブライ語子音文字表記で、これらの名を記すと(間違っているかも知れません。ヘブライ語は読めませんので。なお「#」はアレプです)。

#DM-QYN-ChNWK-YWLD-MChWY#L-MTWSh#L-LMK-

#DM-ShT-#NWSh-QYNN-MHLL#L-YRD-ChNWQ-MTWShLH-LMK-NH-

これを較べると、カインの系図と、セツの系図で、似た名前のものを、その順序を残して取り出すと:

カイン→ #DM-QYN-YWLD-MTWSh#L-LMK-(三人の息子)

セツ→  #DM-QYNN-YRD-MTWShLH-LMK-NH-(三人の息子)

カインの系図は、セツの系図のなかに収まっている可能性があります。元々大洪水を生き延びた家系は一つで、カインの家系は、実は、ノアの先祖の家系つまり、セツの家系と同じであって、何かの理由で、二つの家系に分けられたのではないかという可能性があります。

カインの子孫レメクには、三人の息子がおり、それぞれ、「牧畜の祖先」「芸術の祖先」「武器製造の祖先・鍛冶の祖先」となっているのであり、これらの「祖先」が大洪水で滅びると、そもそも「祖先」の意味がないということになります。

セツの子孫レメクの息子ノアにも、三人の息子がおり、この三人が、大洪水を生き延びて、新しい人類の先祖となるのです。

どうも、カインの家系とセツの家系は、どこかで重なっているか、元々同じ家系だったのか、密接な関係があると考えられます。

セツの子孫のレメクは、男子をもうけ、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰める者」と言って、ノアと名付けます。

ノアは大洪水を生き延びた後、神に捧げものをします。燔祭といって、これは家畜を焼いて捧げるものです。この香りを神は楽しみ、心に言います:「わたしはもはや人のゆえに地をのろわない。……」

神が、「地を呪った」のは何時のことかと言えば、それはアダムの追放の時だとも言えます。しかし、カインの時にも、「地が血を受けた」と言い、「地の呪い」だと言っていますが、それは神が言っていることです。

ノアの捧げたものは、動物の犠牲です。これは牧畜者アベルの捧げたものを想起させます。アベルも動物・家畜を捧げたはずだからです。

セツの子孫レメクと、カインの子孫レメクは同じ人間ではないのかという可能性が高いです。カインの捧げものを受け取らなかった神は、その結果、「地の血による呪い」というものをカインに告げ、カインの絶望に対し、「七倍の復讐」と告げます。

セツの子孫レメクは、「主の地への呪い」を思い起こし、その「慰め」となるであろうとして、息子にノアと名付け、ノアは、捧げものを神に捧げ、神は、その捧げものを受け入れ、「もはや人について、地を呪うのはやめよう」と心に語ります。

カインの捧げものを、受け取らず、殺人というものを生み出した神は、カインの子孫(セツの子孫となっているが)レメクの息子ノアの捧げものを受け入れ、「地の呪い」はやめようと心に思うのです。

息子に「ノア」という意味深長な名を付けたレメクと、七十七倍の復讐だと言ったレメクは、「神の理不尽さ」を、直接にではなく、間接的に主張しているのだとも言えます。これは、「ヨブ記」の主題に通じますし、そもそも、「ヨブ記」と「創世記」で、編集された時期で、それほど極端には違わないのです。

ここには、農耕民と遊牧民の倫理や文化の違いの緊張が背景にあり、イスラエルの神は、遊牧民の神か農耕民の神かという問題があり、ユダヤ民族の文化の基礎には何があるのかが、問題になっているとも言えます。

「創世記」や「出エジプト記」などは、別の文化の神話を借用したり、また元になる資料文書が複数あって矛盾したり、あまた意味不明の場所が多数あるので、編集作業の時、かなり、無理をしたとも言え、その痕跡が、色々な箇所に残っているのです。

例えば、カインの子孫レメクと、セツの子孫レメクは、実は同じ人物だったのではないかというのは、すでに研究されていると思うのですが、偶然にしては、系図の一致度が大きすぎます。
 
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この回答へのお礼

凄い見解ですね! 読ませて頂いて、面白かったです。
全てに圧倒されてしまって、ろくなお返事もさせて頂けそうにありませんが、少し。

アダムの件で、土地は不作になることも有り得るようになったわけですが、
カインがアベルを殺したのは、嫉妬心のように思うのですが、
それも「必要」だと言えるのでしょうか。
それは、神が自らを省みて、カインの「正当性」と認めた、ということなのでしょうか。

また、「大地の豊饒を目的として、聖なる意味で、血や精液を大地に流す儀式」なら、
その「血」がアベルだった、という考えはどうでしょうか。
カインは司祭でもなんでもありませんから、勝手にそんなことをしてはいけないのでしょうが、
もし土地が枯れていたら、人身供養にアベルを用いたとしたら、という。
(でも、創世記22章において、神は人身供養は否定しているんですかね…)

レメクのことは、初めて気付きました。
この時代、絶対的な存在ではない(というか、今よりも身近な存在)である神に、
影ながら抗議していたと考えると、より、血や罪の深さを感じます。

お話をきかせて頂いて、とても面白かったので、僭越ながら私の考えなども書いてみましたが、
全く理解しておらず、チグハグなことを申していましたら申し訳ありません。
素敵な回答を、有り難うございました。

お礼日時:2002/06/27 18:53

私も高校時代の英語の授業で、聖書を勉強しましたが、矛盾にこだわると、そこでつまづいてそもそもの英語の勉強にならずに困りました。


カインが罪を犯す時に「やめなさい」って神は何故現れなかったのか、な~んて考えて。
人をわざわざ苦境に置いて面白がってるとしか思えないし。
カインに対しての憎しみを抱かせ、その上カインを守るようなことを言って、関係者各位を混乱させてほくそえむ。
あー、クリスチャンの人にはごめんなさいだけど、聖書はアナーキーな童話です。
そう思って読むと、太宰の「人間失格」のように面白いです・・・
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この回答へのお礼

そうですよね、矛盾…みたいなものは沢山目について、面白いです♪
(物語として見ても、普通に面白いんですがv)
そう云われてみれば、全能のような神がカインの犯罪を止められなかったのは面白いです。
でも、「宗教学」として、講義にもありますし研究されている方もいらっしゃると思うので、
そういう方の意見をきかせて頂ければな、と質問させて頂きました。
講義を受けていたときに、きちんと先生に質問してみれば良かったのですが…

ご回答、有り難うございました。

お礼日時:2002/06/23 15:32

>「神の愛」ですか…案外甘いんじゃ? とか思ってしまうのはなしでしょうか?(笑゛)


神の愛は無限で、全ての罪人を赦したもう(笑゛)

>このサイトって、nyozegamonさんのじゃないんですよね?
残念ながら、私のサイトではありません。

>何だか、色々と論議してみたくなりました☆
基本的に、聖書は論ずるものではなく、信ずるものです☆
nanami17さんに神の御加護があらんことを。
(でも、私は無宗教です)

この回答への補足

宗教学を専攻して、聖書の面白さに目覚めたので、疑問は論議により解決するものだと思っています。
キリスト教やユダヤ教のヒト達の中にも色んな解釈があって、喧嘩腰になったりもせずに、中々面白かったですよ。

何年か前に、前のブッシュ大統領が、
戦争に行く兵士に神のご加護を、と云ったことで、少し論争になっていたりもしたそうです☆
(戦いを望まない神のご加護が兵士に与えられるのか、という問題で)

因みに、私は仏教です。
回答、有り難うございましたv

補足日時:2002/06/22 21:17
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「なるほど!」と納得出来るかどうかわかりませんが、下記URLに出ていますので、参考にしてください。


簡単に言えば、「神の愛」ということだと思われます。

参考URL:http://isweb31.infoseek.co.jp/family/takamak1/hi …
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この回答へのお礼

「神の愛」ですか…案外甘いんじゃ? とか思ってしまうのはなしでしょうか?(笑゛)
とゆうか、このサイトって、nyozegamonさんのじゃないんですよね?
何だか、色々と論議してみたくなりました☆

早速の回答を、有り難うございましたv

お礼日時:2002/06/22 18:44

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