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いつも思うのですが、例えば新しい事を考えようとする時に、
自分が真剣に考えた思考が、以前誰かが考えていた学説だったり、
同じような著書があったりするのは何故でしょう?
人間の脳の構造はある程度決まっているので、奇抜な発想というものは
できないのでしょうか?

A 回答 (10件)

 どのような時に奇抜な発想(考え)と私たちが感じるかということに絞って考えてみました。



 奇抜な発想「考え」だなと思う時は、それを初めて人から聞いたり本を読んだりした時に、ちょっとやそっと頭で考えても分らないことが多いですよね。
 たまに、おっ!、これは正しそう、凄そうだという直感は得るものの、しかしいったいどうやってその「考え」の結論までに至ったかという思考の筋道というものは始めは分らないことがあります。

 そのちょっとやそっとじゃ分らない理由を以下に考えてみます。

1.言語使用による情報伝達の前提

(1)私たちはある「考え」についての他人とのやりとりを、通常、会話や文章によって行います。
 会話や文章はそれぞれの国ごとの言語によって書かれています。
 それぞれの言語はそれぞれの規則(文法)を持っていて、その規則に従えば伝えたい情報を伝えることができます。
 その規則(文法)は言語ごとに異なっていますが、その規則(文法)がいかにして生じたかということを各言語について比較しながら突き詰めて考えていくと、ある種の構造的な相同性を認めることができる。(というようなことを本で読んだことがあります)
 とりわけ、言語によって内容を伝える形式の中で、三段論法を使った簡単な論理的推論による帰結(例えば、AならばB、BならばC、CならばD、だからAならばDという結論を得ることなど)は、おそらくどの国の言語も、その推論形式をその当該言語の規則に内包しているのではないでしょうか(推測)。

(2)他方、別の観点で、他人(発信者)からある「考え」を聞いた時、受け手がその内容は分ったと言える場合は、発信者の思考の前提となる各種情報と付随する経験、プラス、それらを組み合わせて推論する思考プロセス(上記のような三段論法の組み合わせ方)が頭に入っていないと理解できないでしょう。

(3)以上を総合すると、言語を正確に用いることで、相手に解釈の余地をほとんど与えないような伝達形式はある。
 しかし、形式的に途中をすっとばしてはしょったり、相手の頭の中にあらかじめ存在しないような前提条件・情報、経験を無条件に用いると、受け手は正確に受け取ることができない。理解できない。
 ここに奇抜な発想と感じる由縁があるのではないでしょうか。
 推論につかう仮定や事実とその三段論法の組み合わせ方による推論プロセスの奇抜さに。

 例えば、ニュートン力学では、時間は全宇宙共通の1つの時間軸に沿って流れており、全宇宙のどの部分においても1つ共通の時間軸(絶対時間軸)をとることができると考えていました。
 これは普通の人が直感的に信じそうな考えだと私は思います。
 これが、アインシュタインの特殊相対論では全宇宙共通といった絶対時間軸なるものはなく相対的に各時間軸をとることができるというような考え方(各々の時間の進み方が伸び縮みし各時間軸で時間の進み方が早くも遅くもなる?)、別に、光の速さより早いものはないといった原則(考え方)を提唱しましたが、ちょっと聞いた感じだと、えーほんと?と思っちゃいませんか(耳知識で書いてますので間違ってたらご容赦下さい。私は中学の時聞いて変!と思いました)。
 しかし、以上のような通常の常識に反するような理論(物理の人に言うと「常識」と怒られるかもしれませんが)もちゃんと筋道を追って考えたり、実験を通して妥当性が確認されれば、万人に認知される理論(考え)となることができますよね。

2.新しい発想(考え)を思いつき、言葉に移した時

 新しくある「考え」思いついた時、すぐには言葉に言い表せない時もあると思いますが、それを具体的に文章なり口で喋ったりする際に、1.の(1)のように言語の規則にのっとることがなされると思います。
 よって、その思いついた「考え」を言語で言い表すことができる以上、それは他人に分ってもらえる可能性があるでしょう。
 しかし、1.(3)で述べたようなことがあれば、自分が言っていることが分ってもらえないかもしれない。

 発想(考え)を具体化する過程で、言語の規則にのっとることにより、論理的な推論形式をとることになります。
 よって、人に分ってもらえる「考え」は必然的に論理的推論形式を満足していなければならないことになります。

3.他人に分ってもらえない「考え」とは:奇抜な発想との関わり

 よく、夢で見る内容はあっちゃこっちゃ話が展開して進むので、朝起きて振返った時に支離滅裂だということを経験します。
 見ている時はつじつまが合っているようですが、振返って検証してみると、それは各出来事のつながり方、因果関係が現実的じゃないことや、あるいは出来事自身が現実的じゃないことが判明します。
 夢の内容を見詰め直す時に、例えばノートに書いて見て、各出来事のつながりが1.(1)のように「AならばB、BならばC、CならばD、だからAならばD」という三段論法にのっとっているなら、正しい推論は手続的には満足されていることになります。
 結局、推論の要素となる出来事が経験上、正しいか正しくないかという出来事を表わす命題の真偽の問題に帰着されることになるでしょう。
 支離滅裂に感じるのは各々の出来事を表わす「何々は何々である」という命題が間違っているからじゃないでしょうか。

 あと、これも話題としてふさわしいか危惧しますが、あえて書きますと、精神病を患っている人のいうことが理解できないということもありそうです。
 例えば、親指が青色で、人差し指が黄色で・・・などと言われても普通は到底理解できないでしょう。
 しかし、言っている本人の頭の中ではそれが正しい思考、信じている、つまりつじつまが合っているからそう言うと思われます。
 各指に色が割り当てられているという命題は普通は間違い、偽と判断されるでしょう。
 ちょっとあまりにも奇抜すぎる発想ですが、しかし、大多数の人が「各指に色が割り当てられている」ということを正しいと思うとそれが真となってしまいます。つまり皆が正しいと思ってしまいます。

4.総括
 以上から奇抜な発想は適当な命題をとってきて無理矢理くっつけて、「何々ならば何々」という推論手順を最終的に満足すれば、形上は出来上がります。
 しかし、これじゃ奇抜さはあっても皆に理解してもらえる発想(考え)として通用しないでしょう。
 なぜなら推論手順は正しくても、偽の命題で組み立てては結果的に正しい推論じゃなくなるからです。

 それと違い奇抜で優れた正しい発想(考え)は、最初はその帰結に至るプロセス過程が今までにないものであって一見理解できないもの-正しい推論の上得られた結果かどうか判断できないもの-であっても、仮定や論理展開に必要な事項が真であると検証されることで万人に認知されるものです。
 以上の意味で制限はあるといえばあると言えるかもしれません。

 そして他人が同じ事を思いつくことがあることも、用いる元情報が同じであるということ、最終的には言語で表現しなければならないこと-つまり論理的推論を行う必要があることから、同一の結果に至る可能性は高いと思われます。

 以上、非常に長々と書いてきましたが、もしかしたらこの文章自体が1.で述べたことがクリアできずにEuxineさんに伝わらないじゃないかと心配になってきました。。。そうでしたらすいません。

 個人的には言語を用いない表現伝達手法、音楽とか映像など、しかし皆が共通に良いと感じる美的構造のようなものがあるのはなぜか?といった脳内認知機構に興味を持っています。
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この回答へのお礼

わざわざ書き込んでいただき、まことに恐縮です。
なかなか難しいお話でしたが、(なにぶん未熟なので、というか頭悪いので)
全て理解というわけにはいかないでしょうが、hishさんが、1の条件を
クリアして伝えて下さろうとしていることを真摯に受け取りたいものです。

4の総括の解釈
>奇抜な発想は適当な命題をとってきて無理矢理くっつけて、「何々ならば何々」という推論手順を最終的に満足すれば、形上は出来上がります。

そういうことになりますね(^。^)全くそのとおりだと思います。

>しかし、これじゃ奇抜さはあっても皆に理解してもらえる発想(考え)として通用しないでしょう

そうですね。たしかに、こういう発想ならかなりの量あると思われますが、
それは精神病の例と同じになってしまいますね。

>それと違い奇抜で優れた正しい発想(考え)は、最初はその帰結に至るプロセス過程が今までにないものであって一見理解できないもの-正しい推論の上得られた結果かどうか判断できないもの-であっても、仮定や論理展開に必要な事項が真であると検証されることで万人に認知されるものです。
 
奇抜な考えであると考えられるもので、その考えを提唱する前提、バックグラウンドが真であるか偽であるか解らない場合、つまり中立な場合について。
その命題が偽であるという事が例えば推論や実験によって、正しいという
裏づけが取れるならばその考えは排除されるのですが、
もしもその命題が偽であることを証明できなければ、その発想は間違っている
かも知れないが正しいかもしれない。だれもそれを証明できない。
排除もされないが支持もされない異端という一時期が起こってくると思います。

もちろん将来的にその異端説は新事実によって排除されるか、
新事実によって陽の目をみることになるかの運命にあると思われますが、
その発想はとりあえずは保留されるという事になるために、
その発想者が死んでから異端視されていたその発想が
陽の目をみたという状況は数多くあると思います。
それを思うと優れた奇抜な発想と将来的に認められる考えは、
時期的な問題において制限されているとおっしゃっているのかな?と思います。
あ、解釈まちがってhishさんの懸念される通りの事が起こってしまって
いたら、申し訳ありません。m(__)m

最後に、丁寧な回答、本当に感謝しています。ここまで丁寧にお答えいただくこと、本当に嬉しく思います。

お礼日時:2001/01/19 15:26

再質問を頂いたのに返事が送れて申し訳ありません。

m(__)m

>ここでは、過去にその解に到達した結論の載っている書物(その他
>を読まなかったのに、同じような発想をしてしまったと仮定します
>から、いったん成功した、目的に至るための試行錯誤の過程は、た
>とえば私たちの遺伝子とかに記憶されているのでしょうか?そして
>その記憶を引っ張り出しているだけなのでしょうか?

それは違います。遺伝子に記録されるのは、生命に関する情報だけで、文化に関する情報は一切記録されません。
それらは、文化として、例えば生活の知恵として、あるいは親から子への教育の中で、集団生活の中で受け継がれて行きます。
ですから、同じ試行錯誤が多数の人によって同じパターンで繰り返される場合は文化の中に後天的な学習事項として残るわけです。

例えて言えば、録音されていない演奏はその場で演奏終了と同時に消滅しますが、録音されていれば、CDやテープその他のメディアになります。そして、CDも寿命があるので、いろいろダビングされることでしょう。そうしてメディア自体は壊れてなくなりますが、データとしての音楽は残ります。
今の例に例えれば、音楽=発明・試行錯誤等、CD、テープ等のメディア=人間、ダビングという行為=集団の中で、経験が人から人へ受け継がれること、録音=その試行錯誤が記録されたかどうか。
という感じでしょうか。
ですから、多数の同じ試行錯誤が繰り返されている場合は、断片的な経験の蓄積情報が生活文化の中に残っていると私は見ます。全体としての体系が失われている場合、その断片を再構築しただけでも、再発見はできますし、それを誰も知らなければ新発見にもなるでしょう。また、たった一個の断片からでもその人の想像力で、以前の試行錯誤が全く同じく再現でできることもあると思います。
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回答じゃありません。

ご質問の主旨とはすこしずれますが、hishさんの回答を拝見して連想しました。
「完全言語」
というアイデアがあります。その言語で話すと正しいことしか言えない。間違ったことを言おうとすると文法違反になってしまう。そういう言語。大昔の哲学者(だれだか忘れた)が考えたスカタンです。
 実はこのアイデア、数学を形式化する(つまり使う記号や推論の規則をきちんと決める)ことによって、数学の定理が自動的に導き出せるようにしよう、という計画(ヒルベルトら)として、1900年頃に復活します。しかし、そういう言語が原理的にどうやっても作れないことが証明された。(ゲーデルの不完全性定理。下記URL↓ご参照下さい。)
 一方、物理などでは、論理的演繹よりは、発想の飛躍・逆転・とんでもない拡大解釈、というようなものがブレークスルーを作ります。たとえば物質波の発見。「光が粒子であり同時に波である、というのなら、ひょっとしたら電子だって波でもあるんじゃないか?どんな物質だって波じゃないのか?」とってもmadな発想ですが、これが正解だったんですねえ。ですから物理をやっているヒトはよほど突飛な話でも無碍に笑ったりはしない習慣がついている。そしてこれが、彼らが世の中のスカタン説・インチキ商品を駆逐するのにほとんど役に立たない理由です。(O槻先生は或る意味、別として)
 奇抜なら何でもあり、というわけじゃない。健全なセンス、というものがあると思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=25153
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またしてもstomachmanです。

なんだか、「誰が考えたって同じ」みたいな結論になっちゃうと寂しいので.....

> いつも思うのですが、例えば新しい事を考えようとする時に、
> 自分が真剣に考えた思考が、以前誰かが考えていた学説だったり、
> 同じような著書があったりするのは何故でしょう?
というご質問の現象を説明する上では、

>> ●同じことが既にあった、という場合以外は気にもとめていない。
つまり「自分が考えたのと同じ学説・同じアイデアが既にあった、という場合以外は全然驚かない。」という事が、一番重要かと思います。
 下の表は(いー加減ですけど)多分経験する頻度が少ない順に並んでいて、○△×はその「価値」です。ご質問は(B)のケースのことを仰っている。
A ○「私が考えた良いアイデアは、過去にはない。」<-やったぁ!!
B △「私が考えた良いアイデアは、過去にある。」<-....残念!!
C △「私が考えたスカタンのアイデアは、過去にはない。」<-がんばりましょう。
D ×「私が考えたスカタンのアイデアは、過去にある。」<-とほほ
E ×「私が考えたことのない良いアイデアが過去にある。」<-そりゃそうだ
F ×「私が考えたことのないスカタンのアイデアが過去にある。」<-昔のことだから...
G ×「私は何も考えていないし、過去のことなど知らない。」<-あのね。
 A、Bの頻度が低いのは良いアイデアになかなか行き着けないからです。さらに、「過去にある」と言うには文献なり現物がひとつあれば良いが、「過去にはない」と証明するにはその分野の知識を網羅しなくてはならない、という非対称性がある。この事もA、Cの経験(上の表のことですてば。f^^; )の頻度を下げています。Aは厳しい条件が二重に付くのですから当然希である。D以下は、もとより気にも留めていないんですね。

 その分野について良く勉強なさっているからこそ「真剣に考え」られるわけで、考えた成果はA、B、C、Dのどれかでしょう。そして勉強を続けるうちに「誰かが考えていた学説」や「同じような著書」に行き当たる(B、Dに確定する)場合もある。或いは、勉強するうちに自分のアイデアの良し悪しが分かって来て、はっきりスカタン(C、D)と決まる場合もある。
 「真剣に考え」たことがなければ、こういうことはないし、まして勉強しなければ起こらない(G)。特にBの場合は惜しい。悔しい。また、エライ先生が考えたのと同じ結論に自力で到達した、というのはちょっと自慢でもある。そういうわけで大変印象深い。
 逆に、勉強の過程で、考えてもみなかったアイデア(E、F)に出会ったとき、「これは私が考えなかったアイデアだ。なぜ考えなかった?なぜだぁ~っ!!」といって驚いたら、それは余程の自信家でしょう。或いは、ヒトの著書などを見ていて、しばしば「どーして思いつかなかったんだろ」と思うこと(E)がある。これも結構悔しいけれど「なぜだ?」とは思わないですよね。

 さて、この表から落ちている重要なケースがひとつあります。
H ◎「私が考えたことのない良いアイデアが過去にはない。」
言い換えれば、「あなたが発見してくれるのを待っている、未知の良いアイデアがある!!」
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この回答へのお礼

あ、なんか凄くやる気がでてきました。(単純な奴)
もう少しで諦めるところでした。ホントstomachmanさんは
賢い方だなあと思います。だって、直ぐ納得させられるんだもん。

お礼日時:2001/01/17 18:23

ユージンさんの「お礼」に関して。


「最適解」とは、数学に直接影響される分野だけの話ではありません。また、「元になっている情報」というのも、ネタのヒント情報とも限りません。以下の様に分類してみました。(他にもあるでしょうが...)

(1) もろに元ネタが同じ:特殊な目的にしか使えないけど、魅力的な新しい方法が開発された。そのエッセンスとなるアイデア(あるいは「精神」)を理解すると、形を変えれば(あるいは別の技術と組み合わせれば)他にも使えるということに気が付いて、世界中で同じ発明がなされる。また、芸術のように制約条件の少ないものは、同時に似たようなアイデアってなかなか出ないと思うんですが、それでも「利用できる技術」というものには共通性がある。(レーザーがなければレーザーアートもない訳で。)
(2) 制約の変化:「問題が解決するなら、従来の常識・価値観と相容れなくても受け入れてもいい」という心理的下地(縛りの解放というか、一種やけくそ状態。もーこうなったら良識を否定してもいいや、とか)ができたとき、(実は潜在的にはコタエは出ていたわけで)一斉に同じようなアイデア、理論、哲学が現れる。
(3) 問題の共有:現状の問題点はコレだ、と誰かが看破し、問題意識が共有化されたとたんに、一斉に類似のアイデアが発生する。というのも、「今の時点で現実的な技術・手段を使う」という条件下では、その問題を解決するための方法が少数に絞られてしまうから。近頃は、潜在的ニーズを見つけることこそがアイデアである、という場合が多いので、それを充足する方法の方はみんな似たようなモノになる、と言ってもよいでしょう。
(4) ものの考え方の筋道が共通:共通の「教養」としての、手本となるような理論の構築の仕方、ものの見方、定式化の方法論というものにやっぱり左右されます。

> 50年程前に考えられていた未来の想像図には、その当時の技術の少し発展した盤みたいなの

レベルの低い想像図を見ちゃったんですね。最新の科学・社会の知識をベースにして一所懸命考えれば、50年ぐらいのスパンの技術なら非常に高い精度で予測できるものです。なぜなら、本当に欲しいモノ、本当に必要な技術というのは、なんとしてでも実現しようという強い動機がある。大きな市場が待っている。だから、科学的・経済的によほどメチャでない限り実現します。一方、仮にあした全く新しい大原理が発見されたとしても、それが本当に技術的にこなれて普及するには50年ではちょっと短い。さらにまた、真剣な未来予測が発表されると、それが指針となって研究・開発の方向性ができるということもあります。
 それに対して例えば「火星移住計画」なんて、子供でも思いつくアイデアですが、誰が莫大なコストを継続的に支払うというのでしょうか。馬鹿げた予測と思えます。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。stmachmanさんの分析はすごいですね。
ご説明、ホントにしっくり来ました。
たしかに、私が見た未来想像図というのは一般人の考えたもので、知識人の考えた
ものではなさそうでした。回答いただいた4つの視点から見ると、そりゃ
同じ発想がぽんぽんでても当然ですね。なんか相当納得してしまいました。
そして潜在的ニーズを見つけるというのは、たしかに、
普通の人の考えではでにくそうです。
あーなんかはればれしました。おつきあいいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/16 10:59

先人と同じようなことを考えてしまうというのは当然といえば当然の結果であると思います。

それは脳の限界が理由ではないと思います。
様々な知識は遺産として次の世代に受け継がれていくものです。先人が悩みに悩みぬいて苦しんだ末に確立した理論も次の世代には基礎知識として伝えられます。
そのようにして基礎知識を基に何かを考えますから、その基礎部分が最新でないとすれば、既にその先を考え出している人がいても不思議はありません。
そして、発想力という能力が関与してきます。基礎知識が同一レベルなのに、発想力に違いがあるということは、よくあることです。それは思考回路の違いなのですが、一見無関係と思える事項同士を組み合わせるという発想が大きなポイントとなります。
或いは、好奇心の強さというのも大きな要因でしょうネ。リンゴと万有引力という寓話は有名ですが、普通の人が当り前だと思っている現象を見つけ出す好奇心が大きな発明や発見の出発点となりますから。
言語が違っても、地球上で同じような環境に暮らしているのであれば、同じような進歩を遂げるでしょう。どうすれば楽になるとかいう発明への欲求も似たものであるからです。
では、宇宙人なら?
生活環境の違いから、要求すべき発明や発見が地球では想像できないものであるのではないでしょうか。けれども、その惑星の上では多くの発明家が『先を越された!』といって地団駄を踏んでいるのではないでしょうか。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

kawakawaさんは、膨大な回答をこなしていらっしゃる方なので、
回答いただき本当に恐縮です。
おっしゃるとおり、
一見無関係な事同士を組み合わせるというのが、なかなか難しいのかもしれませんね。普通の人の考えなら、相関するものばかりを、結び付けがちです。
それは効率よく、最短のコースで至る結果を考えようとするからで、
迂回とも思われる方法を敢えてとる人は少ないからかもしれませんね。
それから、地球上の環境はかなり地域によって異なると思うのですが・・・。
日々の生活に余裕のない地域の人と、温暖で食料も豊富な地域に住む人
とでは、考え方も、考える余裕も違うと思います。
後者の地域の人々は、迂回して考えることも出来たでしょうが、前者の人達は
出来るだけ最短のコースを選ぶしかなかったのではないでしょうか?

お礼日時:2001/01/16 00:21

新たに質問してくださるなんてとても光栄に思います。


“発想”の事を“発送”なんて書いていたのに!(笑)

さて、「言語等が違っても・・・」と、ありましたが、人間は基本的に言語が違っても同じ方向で考えますよね。
私は、厳密な専門的な用語では説明できませんし、はっきりはわかりませんが、思考回路みたいな物は「どんな動物でも一緒なのかもしれないな」って思います。
動物が本来持ち合わせている本能、「生きていたい」って思う本能と、「子孫を繁栄させたい」って思う本能はどの動物でも一緒です。
知能の差こそあれ、地球上の動物全てが同じ方向で物事を考えているのかもしれませんね。
ただ、生活習慣や、宗教や、気候、その他の色々な条件が異なると、性格的な物は違ってくるみたいですね。

もし宇宙人がいたら、いったいどんな考え方をしているのでしょうかね・・・
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この回答へのお礼

レス有難うございます(感涙!)
そうですね、言語が違っても、同じ方向で考えるというのは、当てはまると思います。やはり、その考える人を取り囲む環境に左右されるのではないかと言う方向で
だんだん納得してきました。

お礼日時:2001/01/16 00:06

それは歴史の重みその物ではないでしょうか。



人類は、Euxine さんや私が存在する以前に沢山いたわけで、無数の試行錯誤が繰り返されていたはずです。丁度、今、Euxine さんや私が試行錯誤するように。
ですから、無数の試行錯誤が既に積まれているわけで、それがデーターベースになっているかどうかということではないでしょうか?

なっていれば調べれば出てくるでしょう。なってなければ新発見として扱われることもあるでしょう。でも本当にそうかどうかは確かめようもありません。

試行錯誤は目的に対して行われるもので、その目的を達成する為の方法というのは限られてきます。ですから、同じ方法を沢山の人が考えるのはごく自然な事と思います。
また、敢えて無謀と思われるような方法は目的に沿うとは思えないので、手つかずで残っている場合があるようです。それがたまたまいい方法だったりしたときに、奇抜と呼ばれるのかもしれません。
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この回答へのお礼

レス遅くてすみません。どうもありがとうございました。
なるほど、歴史の重みですか。難しいですね。
無数の試行錯誤が行われていた事を、私たちはどのように記憶しているのでしょうか?
>試行錯誤は目的に対して行われるもので、その目的を達成する為の方法というのは限られてきます。

ここでは、過去にその解に到達した結論の載っている書物(その他)を読まなかったのに、同じような発想をしてしまったと仮定しますから、
いったん成功した、目的に至るための試行錯誤の過程は、たとえば私たちの遺伝子とかに記憶されているのでしょうか?そしてその記憶を引っ張り出しているだけなのでしょうか?
どのように理解したらよいのでしょう?
質問ばかりする質問者でごめんなさい。ずっと気になってきた問題なので、
この際いろんな方の意見が聞きたいのです。

お礼日時:2001/01/16 00:03

とりあえず、以下の理屈ではいかがでしょう?



●同じことが既にあった、という場合以外は気にもとめていない。
 ヒトは「同じ」という事に大変興味を引かれますが、「違う」は気にしない傾向があります。偶然の一致を珍しがり、同じぐらい確率が低い偶然の不一致は省みない。たとえばポーカーの手札で1ペアすらできない、という確率は1ペアができる確率より低いんです。あるいは、5桁の数字のうちに同じ数字が入っている確率は5桁全部が別の数字である確率より高い。

●正しい答は、誰が考えても正しい。
 もし正しいやり方がホントにそれひとつしかない、ベストと言えるのはそれだけだ、というのなら、発想の最初がバラバラであったとしても、考えて改良して行くにつれて、結局その最適解にたどり着くということがあってもちっともおかしくない。

●考える元になっている情報が同じようなものである。
 いろんなヒトが独立に、同じ発明や概念、数学の定理に行き着く、ということはしばしばあります。stomachmanが発明をしたほんのちょっと前に、外国で同じ発明があったということもあります。T_T
機が熟したとでも言いますか、元になる知識、技術が同じで、また潜在的なニーズも同じようなものである、となれば、同じ発想がでてきても不思議じゃない。ヒトの知らない事を知っていれば、奇抜な発想もできますね。

●考えるのに使っている仕組み=言語が同じである。
 ゲージツ家の中には言語とは別のシステムでものを考えるひとは沢山いるようです。しかし何らか辻褄の合う話を考える場合、結局言語に頼る。人間の言語というもの自体が持つ、概念を取り扱うメカニズムが(何語であっても)本質的には同じです。さらに数学も幾何も、大体世界共通と言って良いでしょ。(宇宙人の言語だったら違うかも。=>ディレーニイ「バベル17」早川書房)
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この回答へのお礼

しょうもない質問にお付き合いいただき、有難うございます。
確かに、元になっている情報が同じような物である、というのは考えられるかも
知れませんね。同じような概念に感化されたのだから発想も同じようになってしまう、というのも無理はないかもしれません。
そういえば50年程前に考えられていた未来の想像図には、
その当時の技術の少し発展した盤みたいなのしか描けていませんでした。
それから、正しい答えというのは、数学的にですか?
A=Aであるというような類の、自明のものですか?
それとも、根拠があると思われるが、考えようによっては哲学的と思われる学説ですか?つまり進化論とか、ああいう類の。
それにしてもstmachman何の発明をなさったのでしょう?ドキドキ(^。^)

お礼日時:2001/01/15 23:53

奇抜な発想と感じるような発送をする事はできるとおもいます。


しかし、Euxineさんが求めるような発送は出来ないと思います。
脳はほとんどの部分が解明されていませんが、データから見れば分かると思います。
同じような考えをして、同じように感じるのです。
だから、喋っていて言葉も通じるのです。

それに似た話で、才能と言う言葉もちょっと考え物です。
身体能力の差こそありますが、誰だって、物事を吸収する能力に大きな差は無いんです。
集中度や、目標の高さや、それまでの経験によって、個人差が出てくるのを、人の持つコンプレックスから才能と言う言葉に変えてしまったのです。
(ちょっとずれてしまってごめんなさい)

誰でもがんばれば、一般的に言う奇抜な発想なら出来るんですね!
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この回答へのお礼

速いご回答、どうもありがとうございました。
たしかに、atom31さんのおっしゃる才能についての見解は私も賛成できます。
ところで、喋っていて言葉が通じるということで思ったんですが、もしも異なる言語を用いていたら、あるいは言語を用いなくても同じような発想になってしまうのでしょうか。それとも思考をする際にどんな言語を、文字を、数字を用いて考えるかはあまり関係ないのでしょうか?それはやはり脳の構造が同じだからそうなってしまうのでしょうか?ご意見をぜひ・・・・。

お礼日時:2001/01/14 00:19

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