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年をとると涙もろくなるとか、涙腺がゆるくなるとかいわれます。
どうして年齢を重ねると涙もろくなるのでしょうか?
涙腺の問題なのでしょうか?
それとも心理学的な問題なのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

こんにちは。


人間の身体には、そもそも「涙腺が緩む」などといった生理反応や病症はありません。我々は悲しいドラマを見たり、あるいは感動してしまったときなど、良く「涙腺が緩む」などと言いますよね。ですが、これは飽くまで急に目頭が熱くなるなどといった、あの独特の感覚を表す「例えの表現」でありまして、実際には涙腺が揺るんだために涙が溢れ出てきているというわけではないんです。ですから、まずこれは涙腺の問題ではありません。

「基礎分泌」と言いまして、涙というのは目の活動のために常に一定量が分泌されているのですが、これは涙道を通って鼻に抜けてしましますので、普段は外に溢れ出るということはありません。ですが、ひとたび自律神経から「涙を作れ」という命令が伝わりますと涙腺の活動は途端に活発になり、一気に大量の涙が分泌されます。これを「反射性分泌」及び「情動性分泌」と言いまして、目から涙が溢れ出てくるのはこのような反応が発生したときです。そしてこの内、それが「情動性分泌」である場合を「泣く」という「情動反応」に分類するわけなのですが、たいへん不思議なことに、これは動物界広しといえども我々人間だけにある特別な反応だと考えられています。
このように、涙腺といいますのは涙を作り出す器官でありまして、それを溜めておくものではありません。そして、溢れ出るほどの涙というのは自律神経から信号が送られなければ作り出されることはありませんし、脳内に何らかの「情動」が発生しなければ我々は泣くことはできません。ですから、最初に申し上げました通り、本来人間の身体には「涙腺が緩む」といった生理現象はありませんし、まして、そのために涙もろくなってしまうなどということは生理学的にあり得ないんです。
良くこれを老化現象などというひとがいますが、もともと存在しない機能が年齢によって衰えるわけがありませんよね。逆に涙腺が老化しますと、涙もろくなるどころか涙の分泌機能が低下してドライアイなどの症状が表れますので、それがしばしばお年寄りの目の病気の原因となります。

ただいま申し上げました通り、人間にとって「泣く」という行動は「情動反応」に当たります。我々哺乳類や鳥類のような高等動物にとって「情動」といいますのは「感情」あるいは「動機」の源でありまして、何らかの「行動選択」を行うために「大脳辺縁系(扁桃体)」の「価値判断」に基づいて脳内に発生するものです。そして、この大脳辺縁系の価値判断といいますのは生後の体験によって獲得されるものでありますので、これに従って選択される「情動行動」といわれるものは全てが「学習行動」ということになります。
大脳辺縁系における情動の発生機能は基本的には生得的に定められたものです。ですが、それが「学習行動」であるのは、自分が何に対してどのような情動を発生させるかといった「価値判断」の方は生後の体験によって獲得されるものであるからです。積み重ねられた過去の体験・学習に基づいて「大脳辺縁系」の下す判断が、例えば「辛い」とか「苦しい」、あるいは「限りなく嬉しい」といったものであるならば、如何なるわけか人間の脳にはその信号が自律神経系を介して涙腺に伝達されるという回路が作られていますので、我々は涙を流して泣くという情動行動を無意識のうちに選択することになります。
ですから、年を取ると涙もろくなるというのは、ひとつには、この大脳辺縁系の価値判断が年齢に伴って積み重ねられるために、発生する情動反応に変化が表れるということが考えられると思います。要は、経験を積めば誰でも価値観が変わるということなのですが、ですが、ここでちょっと肝心なことは、我々の脳内ではこのような生後学習に基づく価値観の変化といいますのは、大脳辺縁系のような無意識の領域でも知らず知らずのうちに起こっているということです。
では次ぎに、情動を司る大脳辺縁系ではなく、理性を司る「大脳皮質」のような「有意識」の領域では、いったいどのような変化が起こるのでしょうか。

「大脳皮質」といいますのは、良く大脳辺縁系で発生する無意識な情動反応をコントロールする上位の中枢と考えられていますが、これは、厳密にはあまり正確な捉え方ではありません。先に申し上げました通り、情動といいますのは、例えば「怖い」と思ったら逃げる、「得だ」と思ったら近付くなど、我々動物が状況に応じた適切な情動行動を選択し、与えられた環境の中で生きてゆくためにあるものです。そしてどちらかと言いますならば、このようにして選択された情動行動をより効率良く実現するための「サポート」を行うのが大脳皮質の役割です。
大脳皮質は、基本的には大脳辺縁系よりも高次な中枢ではありますが、情動というのは発生するまで知覚することができません。ですから、如何に大脳皮質といえども知覚できなければサポートすることもコントロールすることもできませんよね。このため我々の脳内では、情動反応というのは大脳皮質の知覚よりも必ず先に発生しているということになります。また、価値判断を下しているのは飽くまで大脳辺縁系の方でありまして、あれこれと口出しはできるのですが、基本的に脳内では、大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられていないんです。ですから、大脳皮質といいますのはより上位からその高次機能を以って発生した感情を抑制してしまうというものでは決してなく、言わば脳全体の情動反応のループの中にあり、結果的にそれをコントロールしているものというふうに考えて頂ければあり難く思います。
あまり長くなってもいけませんので、取り敢えずここでは「コントロール」という言葉を使わせて頂きまして説明を先に進めますが、このようなコントロール機能を我々は「理性」と呼んでいますよね。そして、この最も人間らしい反応を司るのが大脳皮質の「前頭前野」であると考えられています。

我々の神経系は、ある程度の年齢になりますとしだいに反応が鈍くなります。体力の衰えに限らず、これは明らかに老化現象です。では、そのような神経系の老化が脳内に起きますならば、情動反応というのはどのように変化するでしょうか。
まず、そもそも情動を発生させている大脳辺縁系の機能が衰え、その反応が鈍くなっていまうとするならば、これは涙もろくなるというよりは感情の起伏そのものが少なくなってしまいますよね。これに対しまして、コントロール機能であります大脳皮質「前頭前野」の方が老化しますと、情動の抑制が上手くゆかなくなります。
もちろん、前頭前野といいますのは情動行動をサポートするためのものですから、それは必ずしも情動を抑制するためだけに働くものではありません。ですが、先に述べました通り、情動反応といいますのは必ず大脳皮質の知覚よりも先に発生するものです。従いまして、ひとたび情動が発生してしまった以上、前頭前野の反応が鈍かったり遅かったりする場合は、それが行動となってそのまま外に表れてしまうということになります。これが、涙もろいのは老化現象であると言われている第一の理由です。

さて、前頭前野の機能が老化しますと涙もろくなります。ですが、この場合は情動の抑制が上手くゆかなくなるということですから、他にも怒りっぽくなったり、あるいは笑い上戸になったりしてもおかしくありませんよね。もちろんその通りでありまして、前頭前野の老化・障害が進行しますと、当然のことながら情動反応全体のバランスが執れなくなってしまい、終いには日常生活に支障をきたすようになります。
こうなりますと、それは既に病気です。ですから、最近ちょっと涙もろくなったような気がするなどといった自覚症状が表れた場合は、早いうちに脳の老化を疑ってみた方が良いと、様々な医療機関が盛んに呼び掛けています。では、涙もろくなったお年寄りというのは、みんながみんな前頭前野にそのような病気の素を持っているということなのでしょうか。
果たして、それはどんなものでしょうか。最近では、ボケや痴呆といいますのは「生活習慣病」と捉えられるようになっているそうです。生活習慣病であるために、それは年を取ってから表れるわけですね。ですから、脳が健康なお年寄りであるならば、そのようなものが必ず発病するというわけではありません。
確かに、神経系の反応は年齢と共に低下するものですから、前頭前野が老化するならば、それによって涙もろくなるというのは事実だと思います。ですから、関係がないとは決して言えないのですが、だからといいましても、涙もろいお年寄りというのは、まるで子供のように自分を抑制することができないのかというならばそのようなことは全くありませんし、ましてや全員が病気だなどということにはなりませんよね。中には講演会などで、涙もろくなるのは大脳皮質の老化が原因であるとはっきり説明しているお医者さんもおられるようです。ですが、それは恐らく、ある程度の高齢者であるならばそれが生活習慣病として発生している危険性がたいへん高いために、なるべく早期の診断を呼び掛ける必要があるからではないかと思います。

「涙もろい」ということは「情にもろい」ということですよね。では、仮に老化でもなく病気でもないとするならば、お年寄りというのは、いったいどうやってそのような菩薩様みたいな情動反応を獲得することができるのでしょうか。これまでにご説明してまいりました脳の構造から、我々人間の成長に伴う情動反応の変化といいますのは、以下の三つの段階に分けられるのではないかと思います。
子供の頃、小さいうちは良く泣きます。これは、子供の内は大脳皮質がまだ未完成であり、学習経験もほとんど積んでいませんので、理性行動よりも情動行動の比率の方がどうしても高くなってしまうからです。多くの場合、それはほぼ自分の欲求に従った情動反応ですので、これを涙もろいとか、情にもろいとは余り言いませんよね。やがて成長しますと、我々はそんなことでは泣かなくなります。これが第二段階です。そして、更に年齢を重ねますと、何故か今度は涙もろくなるというわけです。
これを整理致しますと、
第一段階:情動行動「自分のために泣く」
第二段階:理性行動「自分のために我慢する」
第三段階:菩薩行動「人様のために涙を流す」
ちょっと作り過ぎてますけど、こんなところではないかと思います。

どうして涙もろくなるのか、このご質問に対しまして「他人のために泣けるから」なんていう回答では、ここまで長々と説明しておきながら余りにも無責任ですよね。ですがちょっと考えてみて下さい。お年寄りが脳の老化によって抑制されるべき情動をうっかり発現させていまうというのは、これは十分に分かります。では、どうして脳の老化に伴って他人の苦しみというものに反応することができるようになってしまうのかということになりますと、これではどうやっても説明が付けられませんよね。
何故、お年寄りが他人の苦しみを理解することができるのかと言いますならば、それが学習行動であり、自分の長い人生の中に何かしら同様のことを体験しているからとしか理由が考えられません。何故かと申しますならば、先にご説明致しました通り、それは大脳皮質の中に知識として獲得されるものではなく、大脳辺縁系内に知らず知らずの内に蓄えられてゆくものであるからです。ですから、このようにしてより多くの体験が獲得され、次々と積み重ねられてゆくならば、それは必然的に幅の広い大きな価値観となりますので、他人の出来事に対しても自分のことのように涙を流すといった、大変ふくよかで繊細な情動反応が無意識のうちに難なく選択されるようになってしまうというわけです。
申し上げるまでもなく、大脳辺縁系内にこのような価値観を獲得するというのは、これはたいへん時間の掛かることです。第二段階でまだ自分のことに精一杯の我々には、おいそれと真似のできることではありませんよね。ですから、第三段階に辿り着いて涙もろい、あるいは情にもろいなどと言われるようになるのは、やはり誰しもがある程度の年齢を重ねてからということになるのではないでしょうか。
因みに仏教で「菩薩行」といいますのは、既に悟りを開いて如来となる資格を持っているにも拘わらず現世に留まり、全ての人々を幸福に導くために永遠の修行を行うことだそうです。お年寄りが涙もろいのは、それは長年の人生修養が大脳辺縁系の情動反応にたっぷりと反映されているからではないかと思います。

ついつい余計なことばかりで長くなってしまい、たいへん申し訳ありません。
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涙腺がゆるくなるのと年齢を重ね沢山の経験をつんで人の痛みがわかるように、その状況に経験と記憶が重なる部分があったり、その痛みがわかってくる+涙腺がゆるくなる=年をとると涙もろくなると思います。

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