プロが教えるわが家の防犯対策術!

なぜ、(自己)満足しようと思うのでしょうか。

漠然としていて、申し訳ございません。このことに関しては、自分自身、どう思っているのかわからないので、コメントは控えます。

A 回答 (43件中1~10件)

>過去に後悔することがあれば、未来では、現在では同じことが起こらないように努力しなければならないと思います。


 同じ事が起こるわけがない。事が起こるのは今だからです。同じ物が二つないのと同じです。時空が重複する。それは、例え概念上であっても同じです。概念にも次元の違いというのはあります。
ただ、学ぶということは重要でしょう。というより、それを目の当たりにすれば、嫌がおうにも学ばされます。個人の意思は、そう遠くまで届くものではありません。戦争が何回もあった。しかし、戦争はなくならないでしょう?
 それは、その戦争が別々のできごとだからです。しかしこういう思考もありそう。戦争は人類社会の習慣だ。癖のようなものであるということです。
古い体制、習慣が、固着し、錆になったようなものと考えると、それを引きずり出し、人類の前に差し出す事で、人は気付けます。この根本により、我々は戦争を生活の一部として、特に意識する事なくしていた!という風にです。
 歯ブラシをしない習慣がつくと虫歯になります。
虫歯になって、歯医者ばかり行ってても仕方がない。
歯ブラシをして、習慣を変える事で、虫歯は減っていきます。
食習慣をかえて、虫歯はやはり減ります。
食習慣とは、いつも何気に摂取しているものであり、それに注意を払うこと。
歯ブラシは、丁寧に、一本づつ時間をかける。うがいは頻繁に!
 
 以前食べたものは、しっかりと人類社会の血に肉になっています。ただ、残りものは腐敗し、虫歯の原因になるので、食後にはうがいとはブラシが必要。
 
人類が食べてるのは、食物と、書物(意識体、ミーム)です。
意識習慣による戦争は、意識習慣を変える事でなくなります。
意識習慣は、思考パターンや、嗜好性、偏った意識体環境(教会の家に生まれるとか)など、色々です。
 
意識習慣というのは、精神活動により、ある程度コントロールできます。
自分達の住む意識体環境と、切に、共存か、闘争かという意識が現代は低すぎる。
自然と共存、闘争するようにです。
意識体がなければ、人間は生存できませんし、自然がなくても、生存できません。
☆未来と過去
未来、過去、現在
私たちがいるのは現在です。今というのは、はかれません。未来と過去の接点にあるものではない。接点を想定するなら、それは現代です。
今は、時の流れそのもののことです。つまり、時です。
人間は、いろいろなものに目を奪われるので、自分の立っている場所や、自分自身というものまで、「対象」として見る。
照準を合わして見る方法です。
しかし、全体を観るという方法もあります。意識体にあまり属さない生物は、おそらくこの方法で生きていると思います。
観るのに、目はいりません。照準がいらないからです。意識を、満たすというか。自分が海になったと想像してください。海は、海に起こるすべてのことを、すでにしてとらえています。
おなじようにして、意識を意識で満たすのです。
未来や、過去を意識するのは、照準を合わせて見る方法です。
今を意識するのは、観る方です。この観るほう、リアリティがあります。
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この回答へのお礼

ランチさん、ありがとうございます。

申し訳ございあせんが、時間切れです。
あなたたちといつまでも、すごしたかったのですが
何事にも限りはあります。

また、いつの日かあいましょう。

お礼日時:2002/02/23 08:47

●ミームについて 興味深いサイトを探せましたね。


 わたしもあとで じっくり読んでみます。ありがとうございました。

●では 論文と文学を わたしなりに定義してみましょう。

 論文:その人の考えを文章で表したもの。

 文学:俳句 詩 小説 などの芸術。
    俳句(最短詩) 詩(文を用いて表現) 小説(物語を用いて表現)

 芸術:自己の内もしくは外にある対象(有形・無形)を
    表現すること。

 つまり論文とは考えが表されているのに対して 文学とは対象が表現されて
 いるということになります。対象とは 感動とか 運命とか 愛とかの無形の
 ものでもあり また かもめのように 有形のものでもいいのです。
 かもめのジョナサンは 小説という文学です。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

まだ、わかりません。
かもめのジョナサンは、論文でもあると思います。
なぜなら、その人の世界(考え)を文章で表したものだから。

お礼日時:2002/02/23 03:10

●押し付けを「トラウマ」や「スキーマ」になることとして


 表現したのなら すべての経験は押し付けです。
 しかしトラウマやスキーマという言葉があるのですから
 その言葉をつかうべきです。
 かもめのジョナサンがそのひとにとってスキーマになるのはあたりまえ。
 トラウマになるかどうかは 読み手次第です。
 そのことと かもめのジョナサンが 文学(アート)であるか無いかは
 まったく論点の違うものです。
 すべての事象がスキーマになるのです。

この回答への補足

どのような です。

補足日時:2002/02/23 01:40
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

トラウマについては、知識はあったのですが、スキーマは知りませんでした。ミームに続いて、いろいろお教えくださりありがとうございます。

私が参考にしたページをあげておきます。
http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/

かなりミームについては独り歩きしているようですが、どうでしょうか。

―――――――――――――――――

>かもめのジョナサンが 文学(アート)であるか無いかは
 まったく論点の違うものです。

申し訳ございません。スキームについて論じているものだと思っていました。
では、文学か否かと言うことについて。
文学の定義が曖昧だと思います。chihokoさんの言う論文と文学はそのような違いがあるのでしょうか。「教えて!goo」で展開されている論は、文(章)でもあると思います(文でもあり、論でもある)。chihokoさんは、論文と文学は具体的にどのように違うと解釈しますか。もし、論文が文学であり、文学が論文であるなら、アートの存在はどこにあるのでしょうか。そう、文学とアートは異なったモノだと思います。

お礼日時:2002/02/23 01:40

私は死にそうになったことがある。


キメた後に、屋上に行ったから、。(笑 でも、ホントは笑えません。あの時の私を笑えるような私ではありません。
ようは、何時死ぬかもしれないのです。ようは、何時とか言っていても始まらないのです。今だ。コレは運命論でもなんでもありません。彼が、何故、死ぬかもしれないような所に行くのか。生死の心配が問題なのではないからです。
 
「湖上の上を、小動物の足跡が右往左往している。それは、暗い森に入っていったらしい。空は非常に美しく、月は非常に美しく、雪と森は非常に美しく、氷の世界は非常に美しい。でも僕は思った。「なんて途方がないんだ」。彼の足跡は、僕に語るところを語り、僕が行くところに行く。」
 
後悔したり、先の事の心配ばかりしていると、人生は短い。限られている。
しかし、その足跡の持ち主は、なんて途方のない生死を歩んでいるんだと、わたしは思った。
可能性と、すでにある永遠と、どちらが大事か?
未来を見ていても未来は来ません。今に立って、初めて未来が来るのがわかる。
今を取り戻すのは、勇気のいる事です。
世界は、計り知れない。世界とは風車の事で、又あなた自身のことです。私たちとあなたが同じ世界で生きるというのは、同じ風車を回すということです。
 
大学の話ですが、大学以前に、この部屋は、施設を出たがってる子と、私の友達にその子の家族として入ってもらいます。
思った時にはすでにしています。
私は悩みの多い人間ですので、なかなか思うことに至りません。
そして、私は、たくさんの友だちを見捨ててきました。わたしは、、

この回答への補足

そうそう、「(満足するために)今を生きる」というところでしょうか。

補足日時:2002/02/22 23:25
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この回答へのお礼

ランチさん、ありがとうございます。

beginnersanの知人について
 beginnersanの知人Aはバイクを持っている。Aは俗に言う「飛ばし屋」だ。いつも、公道を100キロ超で走るので、追いつけない。しかし、100キロ超で走っているにも関わらず、時には40キロでずっと走っているときもある。
 知人A~「運を確かめているんだ」。飛ばせるところでは飛ばし、抑える所では抑える、いくら見通しの良い直線で安全っぽい所でも、乾電池や砂面、油面があればイチコロ…自殺はダメだけど、安全運転に心がけ、不可抗力で死ぬのなら仕方がない…
 「何を言っとるんだこやつは」
 beginnersanの知人Bは家出人。いつも親と喧嘩ばかりしている。そして、私の家に転がり込んでくるときもあった。
 知人B~「むかつくやつだぜ」いつも、誰のために食べさしてもらってるんだとか、誰が学校に行かせてやってるかわかるか、な~んて言いやがる。そんなもんわかってんだよ、なんで言うのかなぁ。文句があるなら、出て行けっていうけど、沖縄に行こうとしたとき、迎えにきやがって、わけわかんねぇ。
 「何を言っとるんだこやつは」
 知人Cは世捨て人、高校卒業後、自活生活に入る。時給の安い仕事も何のその。いつも働いてばかりいる。
 「つらいよ」。間違ってるよな、なんで高卒には制限があるんだろう。(中卒もだけど)職安に行けば、大卒以上をよく見かける。俺は、そのへんの大卒よりかは全然つかえるぜ。だけど、証拠がないんだよ。目に見える証拠が…  「何を言っとるんだこやつは」
 知人Dは臆病人。いつも、謝ってばかりいる。相手にも非があるのに、なんで謝りまくるの。
 「落ち着くんだ」。あたいって、ドジでマヌケじゃない。だから、いつも周りに迷惑かけてばかりなの。このあいだ、謝らなかった人がね、不慮の事故で死んじゃった。あたいが謝らなかったせいかもしれないと思うとなんだかね…
 「何を言っとるんだこやつは」

過去、未来。よく歴史に学べと言いますよね。過去は未来のためにあるのでは、ないでしょうか。いつまで悔やんでいても仕方がない。過去は過去、変わらないのだから。過去に後悔することがあれば、未来では、現在では同じことが起こらないように努力しなければならないと思います。結果、どうであっても、また努力して可能性を広げればよいと思います。

お礼日時:2002/02/22 22:51

●どんなものでも最低限作者というフィルターは通ります。


 あなたに入ったものがなんであるかが 問題なだけです。

 自由世界では 押し付けはありません。
 取り入れるも自由 忘れるも自由です。

 自由とはどんなものでも 限りある選択肢の中で存在しています。

この回答への補足

カフカ 『変身』…えぐいね

補足日時:2002/02/22 22:01
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

>取り入れるも自由 忘れるも自由です。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)はご存知でしょうか。文学とは違いますが、文学でも、ショッキングな内容であったら、フラッシュバックもありうる話だと思います。

取り入れるのも自由とは、自由でないような感じもします。(どんな内容か不明な)文学を読む、(初めて)内容を知る。そこで読み続けるのも、やめるのも、これは自由だと思います。だけど、1度知ってしまったことは、なかなか忘れることはできません。忘れることができたらどんなに良いことか…

お礼日時:2002/02/22 22:01

●かもめのジョナサンは論文ではありません。



 ■かもめはつばさが折れて悲しんだ。←これが文学(アート)です。
 ■かもめはつばさが折れて悲しんだとわたしは思う。←これが解釈です。
 ■かもめはつばさが折れて悲しんだので鳥かごで休ませてあげた。←これがエゴです。

 論文でも提示するのは自由にやっていいことです。
 その論理で人を縛ることはできないでしょう。自由世界では無理です。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

日本では、まだ検閲制度が残っているんですよね。
だったら、文学もフィルターに通されたモノだと思います。

論文にも教授や学会がいて、フィルターが存在しますよね。

インターネットは、フィルターが少ないですけど。

>かもめはつばさが折れて悲しんだ。←これが文学(アート)です。

と発表した時点で、押し付けが発生…
しかし、選択は自由だと言う。

だけど、フィルターで通された限りある選択肢を選択することが自由なのでしょうか。

お礼日時:2002/02/22 08:19

>私は、こう思うのです。

ソクラテスやプラトンを読んだといいますよね。しかし、それは原書を彼らの言葉で読み、初めて「少し読んだつもり」だと思うのです。
 私もそう思う。それで、私はこう思う。
君と話をしよう。
だから、生きている者がよいというのです。
でも、手紙も悪くないよね。
でも、何も言わずに、通じ合えたら、もっと素敵だね。
だって、手が繋がってるから、。手はいつか離れるけど、魂は離れない。
だから、手もずっと繋がってる。
永遠は恐ろしくない。
>大学は「場」の提供でもあると思うのです、それを利用しない手は、もったいないと思いますが、どうでしょうか。
 引力があれば。なければない。出逢い。出逢いのないところに私はいません。事象の遭遇しないところに私はいません。だって、事象や人と言ったものは、出逢おうと思って出逢える者ではないから、。時と場所。引力。事象。大学は、事象です。
出逢ったことない事件、いまだ知らない人と、約束するのは無理でしょ?
私が彼に逢いに屋上に行ったのでは無いのです。出逢った。それだけです。
様々な身に起こる事象についてもそう。それが、自己の純粋な引力で生じた者なら、避けようという意識はない。避ける事は嘘をつき、生を濁らす事になるからです。たとえ、苦であろうともです。
今回は、あいに行ってます。約束はしてないけど。
だから辛いのです。何故なら、すでにあっていないから。
>・・そのような素晴らしい人・・
海が好きな人のほうが、素晴らしいと思う。天才でもフツーでも、素晴らしいもんは素晴らしい。
でも、私は何も選びません。ですから、あしたの事もわかりません。ただ、彼にあいに行く途中。だから、そのように動いているだけです。引力は選択できる者ではありません。すでにそうだからです。
でも、私の引力はいまだ、濁っています。
>すでに行きずまりました。そして、崩壊… こわれたよ。だけど、あなたのいう「自己解放」をしたつもり。一番努力したのしたのは、「固定観念を捨てる」ということ。捨てること自体が正しいとは思わないけど、一番ベストだと思ったから。
それをそれとして受け止める。そのあと解釈。自己と比較して、何が違うか問うというのが、今の私だと思います。
 
いつか逢うね。私たちと。
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この回答へのお礼

ランチさん、ありがとうございます。

>事象の遭遇しないところに私はいません。だって、事象や人と言ったものは、出逢おうと思って出逢える者ではないから、。

運命論でしょうか。逢うまでに、多くのプロセスがあったのではないでしょうか。彼と逢ったのも、偶然か必然かはわかりませんが、複雑なプロセスの組み合わせで逢ったのですよね。これからは、今までもあなたの人生。必然性に納得するのも結構ですが。偶然である可能性も思慮に入れて欲しいと思います。必然で納得すれば、可能性は消えると思うのです。

>海が好きな人のほうが、素晴らしいと思う。天才でもフツーでも、素晴らしいもんは素晴らしい。

確かに素晴らしい人は素晴らしい。だけど、1人が素晴らしく思う人と、10人が素晴らしく思う人、最初の一人も含んでみんなが素晴らしく思う人でいれば、最初の一人も含んでみんなが素晴らしく思う人は、最も素晴らしいのではないでしょうか。大学中退してからの可能性と、大学を卒業してからの可能性どちらが大きいのかもう1度考えて欲しいものです。単純に20歳であれば、あと2年。2年の可能性を考えて欲しいと思います。

お礼日時:2002/02/22 08:12

>現在の私はこのように思っていませんが、


現在の意見を聞かせてくれとは言いません。ただ、あなたの心に、なにか変化があっただろうと思うから、それが素敵な変化であることを望みます。
でもね、復讐の鬼と化したとか言うけど、鬼はこんなに弱くないよ、。
復讐されるようなことはゼッタイしない方がいい。
でも、人は思うだけでそうはいかないんだよね、、悲しいね。
ーーーーーーーーー 
生きるために生き、死ぬために死ぬ。こういう思考もあり。
ジョナサンの話はここではぴか一だと、わたしは思います。
あなたは対象を見るときに、それ以外を常に視野にいれ、それ以外のものでそれを見ている。おかしいでしょ?それを見るときはそれを見ればいい。
 
自己満足についても同じ。自己を見るつもりで自己以外を見てたら、自己は見えないでしょ?
 
あと、こだわらないほうがいいよ、私の意見。私の意見としてでなく、ただの意見として聴いて下さい。イエスが言った、釈迦が言った、プラトンは言う、ではなくこういうことが言われた。それだけ。そのようにして言葉は見るべき。だから、彼が言ったと書かれていても、こういうことが言われている。それだけでいい。
言葉は誰にも属しません。それが私的言語の究極です。私的言語は、私にも属していないのです。思った時点、で、それは自立し、そのことで発せられます。
でも、私が言った助言はあなたのジャマじゃなく、味方になるつもりで、一生懸命言ったんだから、そう思っててください。
>高層ビルって面白いね。
そうだろ?屋上行ったこと、ある?夏の夜とか、マジで気持ちいい!
 
街の光が下から来る
 
なんか、街でいきてる実感が、非常にもてる。街も悪くないって思える。
>いつも原点に戻ろうとするとき、あの本を読んでいます。
あの本?「知の技法」の事?
たとえば、私が、聖書読んで、経典読んで、饗宴読んで、ブラックジャック読んで、彼と詩を読んで、全部燃やせとか言われたら、もう燃えてるよ。と言うよ。本の中に原点を見出すのはいいけど、それは根源的ではないよ。記憶に縛られてる事になる。大半の人が私と話をすると、あなたのように怒る。しかし、私が「いかれ」というのは、そのように私を憎めと言うのではなく、自身を解放しろという意味です。私を憎んでたら、私の意見に囚われてる事になるでしょ?ゼンゼン解放になってない。
 
 だから、もう私の意見は、燃やしてしまっていいです。
私が、今までの助言(本とか、詩とか、)を燃やすと言うのは、無下に扱う事ではありません。感謝して、燃やします。
 
詩とは、心からこぼれおちてくる、言葉の涙です。
 
それを燃やす事が、その解放です。
 
あなたが他者を利用して、ぬくぬくしようと思考するとき、必ず行き詰まる。
そんなとき、今、ここに助言が燃え尽きたことを思い出してみてください。
あれは燃え尽きたんだと。

この回答への補足

そうそう、ビギナー字を開発しようとしたこともありますが、かなり難しい。存在する文字の組み合わせで作ると、暗号になるし、形で考えると象形文字になるんですもの。文字を発明した人は天才だと思います。それに、文字を記録する方法を発明した人。すばらしいことです。ランチさんは、そのような素晴らしい人になって欲しく思います。大学に行って、発表できることは発表し、素晴らしいことを行って欲しく思います。大学は「場」の提供でもあると思うのです、それを利用しない手は、もったいないと思いますが、どうでしょうか。(私は、大学に行って欲しく思います)

補足日時:2002/02/21 21:09
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この回答へのお礼

ランチさん、ありがとうございます。

う~ん、私に変化があったというのは、あなたたちの考えを知ることができてとても面白いと思います。単なる哲学書であれば、先人の言葉の解釈がどう、テクニカル・タームの解釈など、つまらないことばかり。
私は、こう思うのです。ソクラテスやプラトンを読んだといいますよね。しかし、それは原書を彼らの言葉で読み、初めて「少し読んだつもり」だと思うのです。
日本語で変換している以上、翻訳者の意志・経験が入っていると思うのです。
つまり、考え方はひとそれぞれで、彼らの視点から見て初めて「入門した」と思うのです。

>あと、こだわらないほうがいいよ
全然こだわってないですよ。だけど、あなたの考え方は、私の片隅で永遠に残ります。安心してください。消えたりはしません。

>そうだろ?屋上行ったこと、ある?
私も幼い頃はよく屋上に友人と行っていました。まぁ、大半は家の屋上だけど。通風口から上がったり、非常階段から上がったり、高層階にある友人の家のベランダから昇ったり、いろいろです。建設中の建物が一番昇りやすかったですね。足場があるので。

でも、ギターは持っていかなかったです。夜景や景色を見ていて面白かったと思います。(でも、だめですよ。勝手に入っちゃ。建設現場は一種の聖域なのです。職人にとっては子供も同然。関係ない人が土足で入ってはだめだと思うのです。だから、現在は行っておりません。怖いし。)

>私が「いかれ」というのは、そのように私を憎めと言うのではなく、自身を解放しろという意味です。

全然他意はないですよ。単に「ありがとう、やさしいネ(愛してる・チュッ)」と言われたので、「憎しみの心」を持ったつもりで書いた次第です。鬼にならなければ、あのような文章は書けなかったと思います。

>他者を利用して、ぬくぬくしようと思考するとき、必ず行き詰まる

すでに行きずまりました。そして、崩壊… こわれたよ。だけど、あなたのいう「自己解放」をしたつもり。一番努力したのしたのは、「固定観念を捨てる」ということ。捨てること自体が正しいとは思わないけど、一番ベストだと思ったから。
それをそれとして受け止める。そのあと解釈。自己と比較して、何が違うか問うというのが、今の私だと思います。

お礼日時:2002/02/21 20:51

●エゴ(利己的行為)について。



 対象に対しての作為(行為)を前提として自己の解釈で対象を判断することを
 またそれにより作為(行為)することを「エゴ」といいます。
 対象を自己が「解釈すること」そのものはどのように解釈しようとも
 エゴではありません。

 あなたは解釈とエゴの言葉も混沌としているようです。

 かもめのジョナサンは 解釈でもエゴでもありません。
 かもめそのものです。(もちろんアートというフィールドの中でです。)
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

>対象を自己が「解釈すること」そのものはどのように解釈しようとも
 エゴではありません。

私も解釈するのはエゴでもなんでもないと思います。
だけど、『かもめのジョナサン』文学として、意思表示されている。
つまり、考え方を提示「このように考えています」しています。

自己の考え方を押し付ける… エゴそのものではないでしょうか。

お礼日時:2002/02/21 20:15

>人間の心理とかもめの心理を比較すること自体が間違っております。


 ↑本当はこのように引用して回答したくないのですが どこがおかしいか
 ご自身で考察していただきたく 引用しました。

●まず わたしが前回回答したのは「かもめの心理」です。比較はありません。
 つぎに何故比較することが 間違いなのでしょうか?
 間違いである根拠が示されておりません。
 
 根拠のない概念を「観念」といいます。
 しずかさや 岩にしみいる セミの声
 「声が 岩にしみいるわけないじゃん。」←観念がそう言わせます。
 しみいるか しみいらないか 誰もわからないのです。
 芭蕉は しみいっているように感じたままを 言葉にしたのです。

 かもめと人間を 考察するとき 脳神経学 や 心理学などでは
 かもめのそれを人間のそれと 置き換えることは意味がない場合いもあるでしょう。
 しかし ここは哲学のフィールドで 物言いしているわけですから
 哲学のフィールドで 判断するべきです。
 ましてやジョナサンは哲学のフィールドよりも広い文学というアートです。
 表現になんら制約は受けません。

 もし あなたがかもめの心理はかもめのもので 人間の参考にはならない
 と考えて>間違ってる。 と言ったのなら。
 かもめと人間を区別していることになります。
 それは 即 あなたと他人 自己と肉体 自我と自己 という区別につながります。
 自己崩壊につながる概念だと気付くべきです。
 区別する必要はありません。かもめはかもめ あなたはあなた
 かもめから参考になることがあるなら 素直に学べばいいだけです。
 かもめは オレじゃないから 間違いだとして拒絶していたら
 きがついたら 自我だけになっちゃいますよ。

●あなたのいいところは 疑問を持つところです。
 疑問をもつことは いいことですが 考えることを怠ってはいけません。
 どんな哲学書を読んでも 考えることをしないと 観念だけが育ちます。
 観念で行き詰まると 宗教に救いを求めるようになります。
 宗教で救われて 幸せならば それはそれでいいことだと思います。
 そこに幸せを見出せないから哲学するわけです。
 そこに幸せを見出せないからアートに光を求めるのです。

 かもめのジョナサンは アートです。

 素潜りのあなたのお礼に
 リュックベッソンの「グランブルー」を匂わせるエピソードがありました。
 ジャックが命を賭けてなぜ海に潜るか わかりましたか?
 あの映画は 冒頭で父親が目の前で潜水事故でなくなるとき
 ジャックが泣き叫びますよね。
 あの泣き叫びがずーと最後のイルカにつれていかれるまで続いているんですよ。
 ディアハンターのニックと同じです。
 危ないとわかっていても その危険に身を投じてしまう人間の悲しさですよね。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

beginnersanのペットについて
 beginnersanのペットはマゾかもしれない。食べ物を与えないと、泣き叫ぶ。「ワンワン」なんと心地よい響き、そうかお前は喜んでいるのだな。

beginnersanの彼女について
 beginnersanの彼女はマゾかもしれない。食べ物を与えないと、泣き叫ぶ。「食べ物くれ~」そうか食べ物が欲しいのか。

ってところでしょうか。

お礼日時:2002/02/21 07:58
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