プロが教えるわが家の防犯対策術!

私はブッダは哲学者で、宗教家ではないと思うのですが、知識が中途半端でよくわかりません。
小乗、大乗は解りますが、いわゆる仏教はいつから宗教として何がきっかけで、成立したのでしょうか?少なくとも、ブッダは菩薩や阿弥陀などの存在を語ってなさそうだし、となれば後世の人が創作したように思えますが、そうなるとブッダの教えとは全く別のものです。ブッダその人を神聖化し「神」の様な存在として崇拝する事は、本来の教えからかけ離れたものと思います。
もしブッダがいきていたら死者を拝んでも、「奇跡など起きるはずもない」といいそうですが、なぜ、このように大きく変質してしまったのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

 


  1812さんの尋ねておられることは、大体理解できるように思います。
 
  結論としての回答を述べると、貴方が感じておられるような釈迦牟尼の「教え」に対する理解の変質は、おそらく、紀元前後の「大乗仏教」の成立が、その分水嶺となるでしょう。大乗仏教でも、中観派の祖のナーガールジュナとか、唯識派のヴァスバンドなどは、十分に哲学的というか合理的な思索を行っており、特に唯識派は、人間の深層心理の構造について深い洞察をしました。
 
  色々な誤解があるように思えます。まず、「宗教」という元は中国の概念であった言葉が、西洋の religion の訳語として選ばれた結果、宗教の概念が、キリスト教やイスラム教の宗教の概念に寄った捉え方をされたという問題があるでしょう。また、哲学という言葉・概念についての誤解もあるようです。貴方が誤解しているのではなく、世のなかで一般に誤解されているようです。
 
  哲学とは、元々、「智慧を愛する」ということで、智慧(個人の最善の生き方・良き生き方の智慧)を求め、思索し、了解する個人の人生的な営みであったのです。その前提に、個人=わたしが生きる、この世界とは、どういう世界なのか、いかに成り立っているのか、自然世界の生物や、天体や、川や海や雨や虹は、どういう訳で、ああいう風になっているのか、という自然学的問いなども含まれ、また人がいかにすればよりよく生きられるのか、という問いのなかには、他者との関係や、社会との関係、「倫理」とは何かという問いも含まれてくるのです。
 
  哲学とは、このように、個人における、自己の生き方の問いであり、世界や社会のありようや規範についての問いで、思索の営みだったのです。その意味で、釈迦牟尼は、西洋的には、哲学者であったと言えるでしょう。人生や人の生き方、社会のありよう、世界の意味について尋ね、それなりの答えを人々の前に提示した「思索者」だったのですし、思想家であったのです。また、思索者・思想家・哲学者は、生き方の実践者でもあり、単なる観照者ではなかったっということも重要です。
 
  哲学というと、解釈哲学というか、昔の人の考えた思想を解釈したり、それを教えたり、研究したりすることを念頭してしまうというようでは、そもそも、哲学とは何かが分かっていないということになるでしょう。そういう風に哲学を教えたり、先人の思想を研究している人は、哲学研究者とか、哲学の先生というのであって、哲学者とは言わないのです。あまりに歴史的に偉大な哲学の先達が多いので、なみの思索や人生への問いかけでは、「哲学者」の名前は畏れ多いというので、哲学の研究者たちは、自分で哲学者とは名乗りませんが、生き方や、人生や世界や社会や倫理について思索する者は、やはり、哲学者というのが妥当でしょう。
 
  釈迦牟尼は、そういう意味では、哲学者であり思想家であったのです。釈迦牟尼は、ソークラテースがそうであるように、「合理的な実践的思索者」で、呪術の類は斥けました。人を神聖化し、神のように扱ったり敬ったりするのは、呪術的な態度で、釈迦牟尼は、そういうことは否定したはずです。サンガ(仏教教団=修行者集団)と釈迦牟尼の関係は、偉大なサンガの指導者が釈迦牟尼で、サンガは釈迦牟尼を神と捉えていたのではありません。釈迦はサンガの絶対支配者というものでもなく、サンガは合議制で、釈迦は、アドヴァイスという形で、サンガに自分の考えを述べ、サンガは会衆が集まって、釈迦の提案を吟味しました。例えば、釈迦は晩年に、戒律を無くしてもよい、とサンガに提案しましたが、サンガは、戒律の存続を決定したはずです。
 
  釈迦は、晩年に至り、わたしはもはや長くはない、この身体は年老いぼろぼろで、壊れかけた車のようである、と弟子に述べたとされます。そもそも、生病老死の四苦を釈迦は事実として認め、この四苦を克服するにはどうするか、ということで、人生の苦悩の解決を求め苦行し、瞑想し、生き方を探求したのです。釈迦は、生病老死は、人間の定めであり、世界の定めであり、不死不老とかを夢見るのは、人間の「無明=無知」による迷い、誤りであり、人は年老い死ぬのであるという事実を認め、よりよくいまを生きることが、価値あることであると教えたはずです。
 
  死者の崇拝など釈迦は認めていなかったはずで、釈迦自身の葬儀も、修行者つまり、戒律を受けてサンガの一員となった者は一切関係せず、世俗の人々が行ったのであり、釈迦の遺骨も、世俗の人々が分け合いました。サンガは取り分など主張していません。
 
  釈迦の教えでは、そもそも、六道輪廻とか、そのようなものはないはずなのです。死者の供養とかも意味がありません。「死後の生」は、あるのかないのかについて、釈迦の答えは、「無記」とされます。釈迦は、そういう問いには一切答えなかったということです。死後の生があるかないかより、いま、悟りへと修行の道を歩むことの方が重要であると釈迦は教えました。人生は長くないので、生きているあいだにこそ、修行に励め、ということです。
 
  小乗仏教では、輪廻転生などの考えも入ってはいますが、基本的には、釈迦の元の教えに近いことを教えているはずです。大乗仏教はインドで起こったもので、一種の社会改革運動でもあり、個人の修行や悟りも重要であるが、多くの苦しんでいる人々をいかに救えばよいのかという問題を課題にしました。この結果「衆生の救済」ということが重要になり、高度な修行や思索の果てに得られる、悟りの成果ではなく、もっと大勢の人が受け入れることのできる、分かり易い教えを考えました。「方便」という形で、釈迦の本来の教えからすればおかしいが、とりあえず人々を救うため、段階的に教化するため、最初の入門過程では、「嘘」を教えても、人々を、教えの道に進ませ、段々と修行のレヴェルが上がって来ると、本来の「真理」を教えればよいという考え方や方法を考え実践しました。
 
  大乗仏教、特に、ナーガールジュナが、「中論」で唱えた、「二諦」論が、そのあたりの消息を明らかにします。「二諦」とは、「勝義諦」と「世俗諦」で、「諦」とは、真理という意味で、仏教の説く真理は二つあるというのです。世俗の人が納得し、そう思いこんでいる真理と、仏教の精髄を知る者が悟っている「真の真理」の二つであると言います。世俗の真理すなわち、「世俗諦」では、例えば六道輪廻はあり、人は死後、地獄に堕ちたり、畜生道に落ちて動物に生まれ変わったりするのですが、真の真理、つまり「勝義諦」では、そんなものはないのです。六道輪廻は、世俗の人々を教化するための「方便」で、釈迦牟尼が教えた通り、人は死ねば、空となり、いなくなります。それが無常という釈迦が悟った、この宇宙の真理です。
 
  わたしは智慧がない者なので理解できないのかも知れませんが、本来「方便」であった、世俗への教えが、何時の間にか、体系的になって行き、例えば、「法身仏」の概念などになると、宇宙には、永遠不滅の根元的原理である「法身仏」が存在し、歴史的人間の釈迦牟尼などは、法身仏が、時間のなかで人間の姿を取って現れ、教えを説いたものであるという考えが出てきます。元々、覚者(仏陀)とは、個人の名前ではなく、悟りを開いた聖者の尊号であり称号であったのですが、釈迦の時代あるいはそれ以前から、悟りを開いた者は、古来より大勢いたという思想がインドにはあり、釈迦牟尼は、「我々の時代に出現した覚者=仏陀」であるという認識があったのです。釈迦の存命中に、インドには、当時すでに輪廻思想がありましたから、釈迦は、偉大な過去の誰か修行者の生まれ変わりだというような、考えの人もいたのです。釈迦は、そもそもそういうことは否定したというか、「無記」で、答えなかったのですが、教えから言えば、そんなはずはないのは明らかです。
 
  とまれ、法身仏というような概念が出てきて、宇宙の法身仏のこの世の現れである「諸仏陀」は、本来、不死不滅の存在であるが、人間を教化し励ますため、周期的に死んでみせ、また出現するのであるというような考えも出てきます。また、大乗仏教では、自己の解脱よりも、まず他者の救済が重要だというテーゼがあるので、本来、釈迦の時代や原始仏教の時代なら、アルハト(聖者=覚者)となった人も、世の人が救済されていないのに、覚者になるのはおかしいというので、大乗仏教では、この世の実在の人間は誰も覚者=仏陀にはならなくなります(なれなくなります)。そこで、本来、覚者に相当する人を、元々は、「修行者」という意味であった、「ボーディサットヴァ」の尊号で呼ぶようになり、これの漢訳(音訳)を「菩薩」と言います。ナーガールジュナなどは、「龍樹菩薩」とも尊称されます。歴史的実在の人間は誰も仏陀になってはおかしい他方、仏陀はたくさんいないと困るので、色々な仏陀が考えられます。また、すべての人が救われないと、自分個人の悟りはいらないという大乗仏教のテーゼから、歴史的に次に出現するのは、遙かな未来、その頃には、すべての人が救われている時代だろう何十億年未来に出現する仏陀、すなわち弥勒だということになり、弥勒は、現在は修行中で、従って菩薩であり、遙かな未来に、弥勒菩薩が仏陀となる時、この世は救済された世界になっているという思想が起こるのです。
 
  小乗仏教では、現在も、アルハト(悟った人)というのは、実在します。何年か前、NHK特集で、アジアの仏教というものを紹介していて、そこで、ミャンマーだったかのアラハンが出てきましたが、アラハンとは、アルハトのことです。(また、哲学者と宗教者の二者択一ではなく、この二つは、「いかに人生を生きるか」の探求者として、重なりあっている部分があるのだということも認識する必要があるでしょう。宗教家でも、呪術を廃し、合理的な教えを説く者と、呪術を認める者がいますが、合理的な思索者としての宗教家は、或る意味、哲学者でもあるのです)。
 
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この回答へのお礼

starfloraさん。ご回答有り難うございます。とてもわかりやすい回答です。、「二諦」論の真理が二つある。としたあたりから、片方の真理が大衆化し、一人歩きをし出した。ということになるのでしょうか。
教えがひろがり、ある意味でつじつま合わせの結果、このような様々な仏が多種でてくることになったと、言えるわけですね。実に参考になりました。文字足らずの質問をご理解いただいて有り難うございました。

お礼日時:2002/01/05 23:25

 仏教では、厳格なまでに「因果(原因と結果の関係)」を根本としておりますが、仏教以外の教えにおきましては、因果が明らかでなかったり、あるいは因果を無視し否定しております。

およそ、世の中の全ての物事において、原因なくして結果が生じたり、原因はあるのに結果がないなどということは、ひとつとしてありえません。
科学というのも、人間の目に観察される現象について、そこに因果関係を究明していく学問でありますし、身近な私達の日常生活においても、道理や筋道のわからない人は、正常とは認められないものです。したがって、いかに見かけが立派で神秘的な宗教であれ、無から有が生ずるというような、因果を無視し否定する教えを説くならば、とうてい最高の真理であるなどと認めるわけにはいきません。
 オウム(アレフ)だって、真理じゃないけども、「真理」といっています。

 仏教をよく知らない人々は、「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経』という経典の中で、「自分は、かって菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養・理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」(無量義経説法品第二)
と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二)
「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二)
「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十)
等と宣言し、『法華経』こそが、釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。
 これは、前の回答にも記述したことで、念仏宗の阿弥陀如来(西方極楽浄土を教化する主であって、この我々の住する娑婆世界の教主ではない、これは娑婆世界の教主たる釈尊に対する師敵対である)や真言宗の大日如来(釈尊によって説かれたものなのに、「釈尊などは草履取りにも劣る」と、釈尊を押し倒している)などは、架空仏であり、実在したことのない仏です。これらを立てること自体、釈尊の真意に背いており、仏教とは名ばかりで、「邪宗教」なのであります。

 さて、その法華経の中には、
「悪世末法の時」(法華経分別功徳品第十七)
「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四)
等々と、「末法」という時代のことが説かれています。
「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」というものです。では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(観持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西にただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。
 このことも、前の回答に記述しています。
 宗教には、高低、浅深、正邪の違いがあります。
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この回答へのお礼

確かに宗教には正邪がありますね。問題はすべての信者が、自分の信仰している教えは正しい。と信じていることです。
そのためにも、一度自分の所属しているところからはなれ、様々な宗教を広く学ぶことでしょう。一つの物しか知らないのに、何を基準にただしい、間違っているといえるのか。ご回答有り難うございました。

お礼日時:2002/01/23 14:41

ブッダ(Buddha)という呼称そのものが、PPP(過去分詞)の「目覚めたもの、悟ったもの」という意味です。


ゴータマ・シッダールタ自身は、真理を悟ったということを他の聖者から指摘された者に過ぎません。
すなわち、悟っていない者がいたからこそ、悟った者がいたわけです。仏教の根本からして既に覚者自身の手でなく、他者によって創られたものです。

釈迦が何に目覚めたかは、他の回答者の言うところですが、菩薩や阿弥陀仏、浄土の世界観などは今日、キリスト教における神話と似たような位置付けで理解されています。
すなわち、社会的に宗教として在る仏教から、哲学として、あるいは思想としてのエッセンスを取り出すには、非神話化という触媒をかけるプロセスが必要になります。

浄土教などは、人によってはもはや仏説ではないといわれますが、その根本にある縁起の思想(仏教はこれに尽きると思います。)は脈々と流れているものと考えています。
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この回答へのお礼

makochiさん、ご回答有り難うございます。それによると、ゴータマ自身悟ったことを、他人から教えられて、理解した。とういことになるのですか?つまり、ゴータマ以前に仏教の前身(例えばジャイナ教でしょうか?)からの流れがすでにあったということになりますか?したがって、伝説や神話の類が下地にあり、それに思想哲学が加わったと解釈してよろしいでしょうか?
これは、意外なご指摘でした。実に興味深いことです。

お礼日時:2002/01/05 21:56

 釈尊は、覚者(仏の別名)とされている記述がありながら、なぜ宗教家だとか、思想哲学者の範囲なのでしょうか?


 ちゃんと立場として、仏陀となり、釈迦牟尼如来ということになっているんでしょ。
 それとも、仏ということがお分かりになっておられないのでしょうか?
 仏もたしかに人間ですし、もとより仏法では、仏を「人間とかけ離れた、完全無欠な超越者である」などと説いているわけではありません。
 では、そもそも仏とはどのような方か、といいますと、宇宙森羅万象に貫かれる根本の法(真理)を発見され、その法を実践することによって、自ら絶対の幸福境涯を証得された方であります。
 仏は、この、自ら悟られた根本の法を、仏法(仏が悟った法)として世に説き出だされました。この仏法に従って生きていく者は、誰もが、仏と同じような幸福境涯に生きることができるのであります。
 しかして、この点に間違いがないことは、すでに、仏法を実践した数多の人々の体験によって実証されている、といえましょう。
 これは、以前の回答を再度、述べさせて戴きました。
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この回答へのお礼

odd-artさま、再回答有り難うございます。
仏の定義が
「宇宙森羅万象に貫かれる根本の法(真理)を発見され、その法を実践することによって、自ら絶対の幸福境涯を証得された方であります」
ということであれば、「真理」という物をどう呼ぶか、その人それぞれであるとして、例えば、古代ギリシャのヘラクレイトスなども、「万物流転」を説き、エピクロスなどの快楽主義派、などは自説を実践しました。つまり、人種時代文化を超えても、彼らもまた仏と呼べることになります。
 疑問に思うのは
「仏法を実践した数多の人々の体験によって実証されている」
と言われる点です。果たしてそうでしょうか?
信長に焼き殺された罪のない仏教とは幸福境涯に生きたのでしょうか?
 仏教とではない純真なムスリムは、釈迦を知らないが故に、幸福境涯に生きることができないのでしょうか?
何を信じ、どう行きようと各人がその生を幸せだ。と思っていきれば、それが幸福境涯であって、そこに宗教の差はないように感じます。あるいは、仏法という物の理念はそのような宗教の差を超えた所にあるのでしょうか。そう信じたいものです

お礼日時:2002/01/05 22:20

#3のyokanです。



仏陀が哲学者か、宗教者家ですが、私は宗教家とします。

理由1:
学問を理論づけるのが哲学。理論を実践するのが宗教と習いました。
 EX)1+1=2を理論付けるのが、数学という哲学(理論)
  実生活で、1本百円の大根を2本買うと、2百円が理解でき、実生活で、問題無いのが、宗教。

理由2:
自分の修行結果覚者と成った道程を記したのが各経本。

理由3:
各経本は、実践の記録(経験談)である為、実践結果を記していると信じる。

理由1:と理由3:で仏陀は、宗教者と信じます。
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この回答へのお礼

これはそれぞれの定義を定めなかった私に非があります。
私は、まず、思想哲学があり、それを実践する一形態として宗教があると考えています。
宗教の特徴として、1。奇跡(医者から見放された病人が不思議な力で治癒したり、破産寸前の社長が、信仰心を持ったことで思わぬ大金が入り、返済できたりetc)によるご加護。2。儀式、儀礼による権威付け。3。祈りによる帰依の確認と、信者としての一体感の発動。4.絶対視するものへの崇拝行為。(生者であろうが、偶像であろうが、特定の方向であろうが)
です。奇跡、儀式、祈り。崇拝行為という物は哲学では見られません。

ゴータマは、悟りから導いた「宇宙真理」とも言うべき思想を弟子に語ったはずで、たぶんこれらのことは彼自身実践しなかったと思います。
~家。というのはそれを実践し、主張した人。という意味合いで。

お礼日時:2002/01/05 22:51

#3のyo-kanです。



> つまりゴータマ・シッダルタ以前に阿弥陀、文殊と後に呼ばれるようになった
> 人物がいた。ということでしょうか?

ゴータマ・シッダルタが、認識している覚者で、過去の人物で、阿弥陀や文殊と呼ばれる人が居たという事です。
この人達は、他の人に、覚者になる道を残さなかったのです。
仏教の宇宙観の中の覚者ですので、地球上の人とは限りません。但し、地球上の最初の覚者ではないと、ゴータマ・シッダルタは言っています。

以上補足でした。
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この回答へのお礼

このあたりは全く知りませんでした。
興味を覚えたので、勉強してみます。

お礼日時:2002/01/05 23:10

 彼を神聖神格化する事とは・・・、誰が、神としているのでしょうか?


 諸天善神が守るとされています。私達は、神聖神格化などしておりません。しているとしたら、ヒンドゥー教でしょう。

 ゴータマ・シッダルタが解いたことは、思想と哲学であったはずが・・・、誰が、そういうことを言っているのでしょうか?
 釈尊は、思想哲学というものではなく、宇宙の真理を悟られ、人々に多くの教えを遺されました。経典に説かれる深義に疑いをもつ人はいないでしょう。

 「法華経寿量品第十六」には、
 「如来秘密神通之力」
と説かれています。この神通力とは、悪業深重の衆生をも必ず成仏せしめるという、仏のみが持つところの究極の功徳力をいいます。

 今は、末法ですから、釈迦仏法を論じても詮無いことであります。「白法隠没」ということをご存じないのでしょうか?
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この回答へのお礼

odd-artさん。私はあなたがどのような立場の方か存じません。したがって、一般論で申しているのであって、特定の派閥がどうだ。といってはおりません。

神というと、キリスト教的な物か、神道的なニュアンスになるので、うまく伝わらないのですが、多くの宗派では、キリスト教におけるところの十字架とキリスト像とぢたような扱いをしておりませんか?多くは、ひれ伏して拝む対象になっています。崇拝対象としては確実になっています。

ご本尊を、大事な物だからといって、家宝のように扱うにしても、そこは「物」扱いなさっておいでではないでしょう。(中には物を拝んでも意味がない。とご本尊すらない所もあるかも知れませんが)
逆説的にとるならば、崇拝対象になるからこそ、宗教である。といえるのかも知れませんが。

お礼日時:2002/01/05 23:08

>知識が中途半端でよくわかりません。


知識というもの自体が中途半端で真実ではありません。そのために、例え歴史の教科書でその歴史的事実が記されていたとしても、わかったことにはなりません。
それは、確かな歴史を今見るのは、化石を見るようなもので、恐竜を見るのとは訳が違います。あなたが見れるのはすべてだけです。
>もしブッダがいきていたら死者を拝んでも、「奇跡など起きるはずもない」といいそうですが、
 仏陀なら、すでに今起きている奇跡を説くでしょう。そのときの奇跡をそのときに仏陀が説くことが、その奇跡であるでしょう。
>このように大きく変質してしまったのでしょうか?
どういう意味ですか?変化が小さければわかったでしょうか?変化が大きかろうがが小さかろうが、変化しないものはありません。僕らの生きてる世界はそうです。
しかも、すべて同時であるので、実は、大きいも小さいも比べる事は出来ません。
 歴史は一瞬より小さく、無いようなもので、今は永遠です。そのことで、過去、今、未来が連続のもでない事がわかります。今のつながりだなどと言っているわけではないです。今は今です。因果律は、本来的には、同時に、すでに完成しています。それは、運命論でもありません。運命論にすべてはありません。因果律は、あなたがいる事で、成立します。それで成立するのは今です。あなたがいるので、運命論をすべてとする考えは、簡単に放棄されます。

>なぜ、このように大きく変質してしまったのでしょうか?
嘘つきが多くいたからですが、大事なのは、写経してひろめた者が嘘つきと言っているのではなく、それを読むものが嘘つきであったら、どこでも、なんでも、その嘘つきに関わったものは、大きく変質します。つまり、変質したのは、嘘つきがいたからです。そして、今もいるからです。
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この回答へのお礼

 >>仏陀なら、すでに今起きている奇跡を説くでしょう。そのときの奇跡をそのときに仏陀が説くことが、その奇跡であるでしょう。

良く意味が分かりません。奇跡といえば、「すべての医者が見放した瀕死の病人が
手をかざしただけで、元気になった」ような事例を、どう説く事が奇跡になるのでしょうか?

>>このように大きく変質してしまったのでしょうか
 しかしながら、悟りを開いたときに、彼の脳裏に++菩薩、××如来、**観音などの数多くの仏がしゅみ仙を中央に頂く世界に、、、といったイメージがあったとは思えないのです。あるいはお経を唱えれば、家内安全、金運上昇などの現世利益効果もうたってなかったはずです。
いくら何でも、これは彼がイメージした物とは全く別の理念です。どう考えても連続性を認めえないように思うのです。。

お礼日時:2002/01/05 22:33

仏陀は、悟りを開いた為、覚者と成りました。


その後、人から請われ教えを説きました。
本来、覚者に成る為の教科書を表したのです。
それでは、何故表したのかと言うと、人間が生きてゆく上の苦しみや悲しみの原因を明らかにし、苦しみ、悲しみを無くす為です。

それでは、仏陀以前に覚者がいないかと言うと、阿弥陀や、文珠等がいたとしてします。この次の覚者とされているのが、弥勒です。

死者に対し、拝む事は供養の為です。奇跡を起こすためではありません。

簡単な内容ですみません。

この回答への補足

yo-kan-62さん
私は良く知らないのですが
「仏陀以前に覚者がいないかと言うと、阿弥陀や、文珠等がいたとしてします。この次の覚者とされているのが、弥勒です。

つまりゴータマ・シッダルタ以前に阿弥陀、文殊と後に呼ばれるようになった
人物がいた。ということでしょうか?

補足日時:2001/12/26 22:51
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 非仏説論のことでしょうか?


 これは、経典結集が数回にわたり行なわれ、仏教が、文字によって記され、経典という形となっていったのです。
 経典の内容についてですが、個々の経典をただ較べて見ているだけでは、バラバラな、まったく異なる教えが説かれているようにしか見えませんが、じつは、膨大な量の経典も、法華経を中心に据えて見直してみれば、すべてが一つの法門の一部分・一部分を構成している、言い換えれば、仏教全体が矛盾なく一つの壮大な法門(一念三千の法門)を説いている、ということが明らかになります。
 これは、仏教が、たしかに一人の仏によって説かれた教えである、という証明であります。
 以上のことから、私達は、仏教がすべて釈尊の説であることを確信しています。
 付言しておくならば、それは、仏である釈尊が説いた教えだから正しい、というのではなく、その教えの内容が現に勝れており、そのような勝れた教えを説いた方であるから仏として尊敬する・・・、それが仏教の基本姿勢である、ということです。

 それから、信仰とは、信じ仰ぐ・・・、すなわち、本尊を人生の根本として信じきり、手を合わせて拝むまでに尊敬しきる、いわば信頼・尊敬の極まった姿が信仰である、といえます。
 仏教は、厳格なる因果の理を根本として、人々を幸福生活へと導く法を説き明かしたものですから、まったく他の劣悪な教えとは比較にもならず、仏教と、仏教以外の宗教を相対すれば、仏教が勝れるのであります。
 この仏教は、三千年前、インドに出現した釈尊(釈迦)によって説かれたものですが、この釈尊の教えが、時代と共に多くの宗派に分かれ、今日に至っています。
 釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた「無量義経」という経典の中で、
 「自分は、かつて菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養、理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」
と述べています。これまでの方便の仮説を払って、八年間にわたる「法華経」を説いて真の成仏得道の法を示されたのであります。
 法華経の迹門では、釈尊は始成正覚の仏でありますから、普遍性に欠けた現在かぎりの存在となっています。
 しかし、本門において、釈尊の久遠実成(真実は久遠の昔に成仏を遂げていた、ということ)が明かされています。これにより、仏も、久遠より常住する普遍的存在となり、真の一念三千・即身成仏の法門となるのであります。
 概略すれば、仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽しています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。
 如何でしょうか?

この回答への補足

odd-artさん ご回答有り難うございます。
さて、釈迦を崇拝し信じるとこと、彼を神聖神格化する事とは異なると思います。
ブラーフマンが信仰の対象になるのならば理解できますが。
ゴータマ・シッダルタが解いたことは、思想と哲学であったはずが、いつの間にか
法力の発動などの超自然現象が加わり、超人(その弟子や、各宗派の開祖であっても)のように解くのはこれはゴーダマの意としたことではない。と思うのです。
各教典が大きな教えの一片であり、それが壮大な教えの為の、「方便」であったとしても、超自然パワーをくわえて、より神秘性を高めたのは、後世の創造であって、彼自身はただの人間であり、特別なパワーをもたなかったと思うのですが。
いかがでしょうか?

補足日時:2001/12/26 23:01
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