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「ソフィーの世界」を読んで哲学の概容のようなものを垣間見ましたが、
そんな表面上のものだけでも考えてみると哲学者って
まともに人生歩けるのかなんて思っちゃうんですけど
実際哲学者ってもちろん千差万別なのも分かるんですけど
それでもどんな人がいるんだろうと思ってしまいます。

A 回答 (6件)

 


  哲学者には、どんな人がいるのか、つまり、哲学者とは、どういう人なのか、という質問と理解します。
 
  普通に答えますと、「哲学者」というのは、特にこういう人だという特徴はありません。無論、様々な根元的問題について思索するのですから、「思索力」がなければなりません。しかし、思索力は、別に哲学者でなくとも、色々な分野、色々な生活の分野でも必要になります。いわば、何を問題にして、思索力を駆使するかの違いです。哲学は多様で、問題も多様で、アプローチも多様ですから、学者的思索の哲学者もいれば、金儲けの思索が得意な哲学者もいれば、世渡りのうまい哲学者もいれば、逆に世渡りの下手な哲学者もいれば、隠者のような哲学者もいれば、大いに社交家の哲学者もいれば、政治に関わる哲学者もいれば、政治とは無関係な哲学者もいれば、金のある哲学者もいれば、貧乏な哲学者もおり、最初に言ったように、特に「哲学者」一般を特徴付ける特徴はありません。
 
  しかし、これでは、あまり面白くない回答ですから、もう少し話を続けます。
 
  哲学には、「人間の生き方」「倫理・善とは何か」という課題も含まれます。これは智慧に関する問題ですが、元々哲学は、「愛智」という意味で、このような智慧に関する論理的思索・実践的思索の探求と、答えの探求が、その課題でした。近世以降になって来ると、このような智慧の問題に関係のない哲学者と呼ばれる人も出てきますが、基本的に哲学にはこの智慧とは何か、善とは何かという問いが含まれます。
 
  そこで、このような「人間の生き方」について探求した哲学者については、大きく分けて二つの類型が考えられます。笑い話ではありませんが、善とは、このようなもので、人間は、このように生きるのが最善であるというような、智慧や倫理に関するテーゼを提示した哲学者で、1)自分の主張通りの「生き方」を実践した人。2)自分の主張とは、反対の生き方(または明らかに主張と矛盾する生き方)を実践した人。3)自分の主張は、哲学の学説で、自分の生き方はまた別だという人。この三種類に分けられます。
 
  1)の典型は、古典ギリシアのソークラテースです。ソークラテースは、知とは何か、善とは何かを生涯問い続けました。この問いの答えは、パラドキシカルなものとなります。それを、ソークラテースのイロニー(皮肉)とも言います。「無知の知」などはイロニーです。ソークラテースは、善とは人間がめざす、かくあるべきこと、かくあること、運命だとも考えました。ソークラテースはそのように人々に説き、弟子に教え、そして、その通りに生き、死にました。従ってソークラテースの「死」は、イロニーになり、パラドキシカルなものとなりました。このソークラテースの「死」は、当時の最高の良心ある知識人たちにとって、大きな衝撃で、また課題となりました。プラトーンは、ソークラテースのこの「死」に衝撃を受け、彼の思索と哲学は、ソークラテースとは、どのような人間であったのか、という根元的疑問から出発しているとされます。
 
  ソークラテースの「死」に似て、人の生き方に大きな影響を与えたのは、イエズスの「死」です。イエズスは普通、哲学者とは言いませんが、人間の生き方、人間のありようを説いた人物として、偉大な、人類の教師だったとも言えます。イエズスは、自分の教えた通りに、自分の生を歩み、そして「死」を迎えました。このイエズスの生き方と「死」が、パウロスなどを感銘させ、衝撃を与え、こうしてキリスト教という世界宗教が誕生したのだとも言えます。
 
  あるいは、これも哲学者とは呼ばれませんが、仏陀釈迦牟尼も、その教えた通りに生き、死にました。人は覚りを開けば「苦」を脱することができると釈迦は説いたのですが、完成された人格で八十歳になるまで、その教えを説き、教えの通りに生き、そして、安らかに死んで行きました。こうして、仏陀の生き方・死に方は、多くの人にとって、模範とする最高の理想モデルとなったのです。
 
  また古典ギリシアからローマ時代にかけ、キュニコス派や、エピクロス派と言った哲学の考えがありました。これらの人々は、物質の外見的豊かさ、財産・富・権力・社会的地位などで、人は幸福になれないと説きました。人の幸福は、その内面的安定と安らぎにあるのであり、乞食であろうと、心で豊かな幸福を得ていれば、権力と富を持つ、帝王よりも幸福であるとし、特にキュニコス派は、乞食のような生活をしました。ディオゲネースというキュニコス派の哲学者は、大きな樽のなかで生活していたという伝説がありますが、当時の世界帝国の帝王アレクサンドロスがやって来て、何か望みがあるかと尋ねた処、彼は、アレクサンドロス大王に、「そこをのいてくれ、貴方が遮っている、太陽の暖かい光が欲しい」と答えたそうです。
 
  説いた教えや思想と、その人の生き方、死に方が一致しない、あるいは逆になっているという思索者は、古代・中世では、稀というか、あまりいないようです。何故なら、歴史的に残っている、名のある思想家は、一応「言行一致」でなければ人々は納得しなかったので、立派なことを説いても、それと逆の生き方をした人の思想には、価値が置かれず、歴史的に淘汰されたとも言えるからですし、また、自分の生き方として探求した生き方・死に方を生き、死ぬのは、ごく当たり前のことだったからでしょう。
 
  ソークラテースが議論した多くのソピステースたちも思想家と言えるでしょうが、彼等は、論理(と修辞)で相手を論駁できる思想が最高であるという思想であり、また、思想はプラグマティックな必要のためにあるという思想でしたから、「貧しくとも、心の平安があれば、人は幸福であり、幸福のためには、むしろ、富は邪魔である」などと、イエズスのようなことを説き、金持ちの子弟に教えて、大金持ちになったソピステースがいても、別に言行不一致という訳でもないことになります。ソークラテースの愛弟子だったアルキビアデ-スは、学問に秀で、政治にも才能のある美青年として有名でしたが、ご都合主義の化身のような人物で、ソークラテースには不肖の弟子でしたが、彼は彼で、それなりに首尾一貫していたとも言えます。「郷にいれば郷に従え」が彼の思想だったのですから。
 
  2)教えや学説と、その人の実際の生き方・死に方の不一致が大きくなるのは、近世・近代・現代の思想家・哲学者と呼ばれる人たちでしょう。ルソーは、啓蒙を説き、人間の自由の価値を説き、新しい自由な人間はどのような教育で生まれるかということで、『エミール』という本を書きましたが、その実際の生き方は、確かに自由で、勝手気ままなもので、そのことは、自由を説き、社会の旧弊な慣習からの離脱を説いたのですからおかしくないとしても、確か、自分の庶子に当たる子供を平気で捨て子にしたという話ですから(ここは、記憶なので間違っているかも知れません。間違っていたら、ルソーにお詫びしましょう)、教育思想を説いた者としては、言行不一致です。
 
  ショーペンハウアは、人生は、権力意志などの人間のエゴが衝突する場にあるので、人生は苦と悩みに満ちていると説き、また、インドのウパニシャッド哲学を知り感動し、これこそ、人間の生き方の答えで、人は、もろもろの自我の主張を離れて、安らかな境地に入れるのだなどと説きましたが、実生活では、かなりな利己主義者で、家の使用人(メイドだったと記憶します)に腹を立て、階段から突き落としたという話が確かありましたから、言行不一致です。(ただ、ショーペンハウアの思想は、この世はエゴとエゴの衝突の場で、人生は苦だというものですから、自己の利己的な行為も含め、この世は苦の世界だということかも知れませんから、それなら一致しているとも言えます)。
 
  論理実証主義のバートランド・ラッセルも哲学者だと呼ばれますが、彼は確か、「若くて頭がよかった時は数学をやり、歳を取って頭が悪くなったので、哲学をし、更に歳を取ると、もっと頭が悪くなったので、文学をした」などと言っていましたから、哲学者としては、どうかとも言えます(ラッセルは、ノーベル文学賞受賞者です)。ただ、ラッセルの思想は、人間いかに生きるかというような問題ではなく、また、ラッセルは、その師ホワイトヘッドなどと比べると思想家として三流という意見もありますから、あまり問題でないのかも知れません。
 
  あるいは、実存主義の哲学者で、こちらはノーベル文学賞を辞退したので有名なジャン・ポール・サルトルは、新しい時代の人間のありようを説き、中期からはマルクス主義実存主義哲学者(変な概念ですが、仕方ありません)となり、例えば、男女のあいだの自由で対等な関係の理想などを説き、当時、彼の事実上の「妻」と見做されていた、シモーヌ・ド、ボーヴォワールとの愛の関係は、彼が新しい人間関係を実際に例示していたのだとも見え、それに感銘した人も大勢いたのですが、後に、ボーヴォワールの手記などが明らかになってくると、サルトルはブルジョワの息子で、わがままで、ボーヴォワールに愛とか慰めとか心の支えなど求めてばかりで、別に愛人を造り、財産も、全部そちらに譲り、ボーヴォワールとその娘には、何も与えなかったということが明らかになっています。かなり勝手な利己主義者だったのです。ボーヴォワールが成熟した女性だったのと比べると、子供と母親のような関係です。
  
  もっと有名な人では、ハイデッガーがいるでしょう。彼は二十世紀最高の哲学者とも、最高の智者とも称されますが、確かに、彼に匹敵する二十世紀の思想家はいないとも言えます。彼の思想は時代と共に変化したようにも見えますが、基本的なテーマは一貫していたとも言えます。彼は、人間の近代的実存は、本来性を失い頽落していると主張し、実存の回復を唱えました。実存の回復とは、そもそも、人間があるべき本来の人間であることを求めるということで、ソークラテース以来の哲学の課題です。ハイデッガーの思想からは、論理的に、ナチスの擡頭や、ユダヤ人の虐殺を肯定あるいは、根拠付けるような思想が導かれる可能性が指摘されますが、ハイデッガーは、ヒットラーに接近し、積極的にナチスの活動を支援し、更にナチスの思想的指導者になろうと意図して行動したことがあります。ナチスは、ハイデッガーを利用したが、その考えを受け入れなかったのと、ハイデッガーの方でも、ナチスに、その「不徹底さ」故に失望したという経緯で、両者の関係は切れます。しかし、ハイデッガーは、ドイツ敗戦後、ナチスの残虐行為に関係した人々が、自分の間違いを認め、多かれ少なかれ、ユダヤ人に謝罪の意を表したのに反し、一切、戦争中の行為については沈黙を守りました。ハイデッガーを尊敬するユダヤ人詩人が、戦後彼を訪ね、一言でよいから、ユダヤ人に謝罪の言葉を欲しいと懇願したことを、(笑っていたかどうかは知りませんが)、無慈悲に拒否し無視します。(また、サルトルは、ハイデッガーを偉大な先達として、尊敬の意を表していたのですが、サルトルの理解は底が浅く間違っていたのを、ハイデッガーは知っていて、指摘せず、嘲笑っていたという話もあります)。
 
  ハイデッガーは、偉大な思想家で、哲学の巨匠でしたが、その思想の偉大さや卓越性が、必ずしも人格の卓越性に一致しないという例でもあるでしょう。ハイデッガー自身が、若い頃、苦労を重ね、社会的地位を手に入れたということも関係あるのかも知れませんが(彼は、若い頃、非常に優秀であったので、大学で哲学を研究したいと思ったのですが、それには財産が必要で、それがなかったので、貧乏な者でも入れる神学校に入りました。ハイデッガーは、神学生として出発し、大学に職を得るにも、色々不運に出会っています)。
 
  偉大な哲学者で、言行不一致の人というのは、なかなかいません。ただし、変人・奇人は大勢います。最初の頃のディゲネースも変人・奇人でしょうし、ソークラテースも変人だと言えます。
 
  3)現代は、大学に哲学の授業がありますから、哲学を教える人が大勢いる訳です。これらの人たちは、哲学者ではなく、哲学を教える者でもなく、大部分は、「哲学史・哲学の色々な説を教える人」です。こういう人たちのなかには、教えている学説と反対の生き方をしている人がいるでしょうし、哲学の教えと、実生活が無関係な人も大勢いるでしょう。
 
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たまにNHK教育で代表作をベースに哲学者の生涯を海外&国内特番で放映してくれるので、もし今度見かけたら、ぜひご覧ください。


ずっと前、プラトンの「国家」の海外特番が放映されていましたが、なかなか面白かったです。
とはいえ、テレビはいつ放映してくれるか分からない。
お勧めする本は「自分を知る哲学入門(ちくま学芸文庫)」です。
この一冊で大物哲学者はバッチリです。読みやすいですよ。
下のURLはアマゾンのサイトです。参考にしてくださいね。
あと、ウィトゲンシュタインというユニークな哲学者を見事映画化した
「ウィトゲンシュタイン」(デレク・ジャーマン監督)も、おすすめ。
哲学者について映像で理解できる唯一の作品かな。
これは現在、ビデオが廃盤なので、大きなレンタル屋なら見つかるかもしれません。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081 …
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どんな人なんでしょうね。


まず立ち上がり、言葉と論理でガチャガチャやって、鏡を作り、自分の後ろにある世界の一部が映ったその鏡をみて、ニヤニヤ、のように、一喜一憂するような人たちでしょうか。もちろん、人間が作る鏡なので、いがんだり、色がついてたり、曲がったり、間(ピース)が抜けてたり、横向いてたり、米粒の様に小さいうえさらに、曇ってたりするわけです。そして、その虚像から、いろんな認識を得ようとします。じじつ、けっこうなきっかけを得ます。そのきっかけで、後ろを振り向いたりすると、びっくりします。自分が作っていたのが鏡なのですから。
 しかし、立ち上がらず、突っ伏したまま、下を向いて砂粒をいじり続ける人もいるのです。死ぬまでです。空を見ることなく、。です。もちろん、鼻から世界で生きている人もいると思います。たぶん、。そういう人に肩をたたいてもらいたいです。振り向いてその人の顔を見て、後ろに広がる景色を見たいです。しかし、肩をたたかれても、にごった鏡に見入ってしまうのが、苦悩する人間なのです。声でもかけてもらえれば一発でわかるんですが、やはり、耳の聞こえない人が多いのです。
  
 僕は、帰り道の上で、万札を拾って喜ぶよりも、夜空の星をつかんでうなずきたいです。
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「哲学者」と一言で言ってもいろいろな人がいますね。


政治家、自然科学者、革命家、エピキュリアン…。
哲学者の中には、もちろん「まともに人生を歩」いた人も多いです。もちろん、何をもって「まとも」と定義するかは難しい問題ですが。ニーチェやキルケゴールのように本当に悲惨な最後を遂げた人ばかりに目がいくのかもしれませんね。

ドイツの観念論哲学者、ヘーゲルを例に取りましょう。彼の若い頃は家庭教師や大学の私講師(授業はできますが給料はなし! 学生からのカンパのみ)をしたり、ナポレオン戦争のおかげで『精神現象学』の出版が遅れそうになったりと、ろくなことはなかったのですが、のちにはベルリン大学教授(晩年には総長)に就任したり、ゲーテをはじめとしたいろいろな人との交流を深めたりしてきたようです。また、学生からの評判もなかなかのようだったみたいです。
また、古代ギリシアではプラトンの『饗宴』をみると、「哲学」はお酒を飲みながらでも論じられていたようですし。

一般に日本では哲学といえば小難しい、理屈っぽい学問と思われがちで、それが反映して「哲学者」といえば「まともに人生」歩けない人のように考えられがちです。しかし、ヨーロッパ(特にフランス。そういえばサルトルは元々、高校の哲学教師でしたネ)では哲学は高校で習いますし、教養がそれなりにある人にとっては哲学は基本でさえあるようです。
本来哲学とは「フィロソフィー=知を愛すること」なのですから、学問的好奇心さえあれば誰でも哲学者になることはできると思います。
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 ソフィーの世界は未読なので解りませんが、結構哲学者には「いっとる事とやっとる事がちゃうやんけ!」という実生活のダメ人間確率が多いのは確かです。

それを言うと作家もそうですが。何か一つのことに特化して優れた業績をなす人間は、哲学者に限らず違う部分が抜けている…というのはあることだと思います。
 具体例については…「哲学ドリル」(鷲田小彌太/すばる舎)というおバカな本(ホメてます)の哲学者プロフィールを見ると「あーやっぱり」と思っていただけるかと。
 知りたい事はこう言うことで宜しいでしょうか? 違ってたら補足してくださいね。具体例が欲しい場合はおっしゃって下さい。
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日本にも哲学者という肩書きの人は何人かいるようですが、僕はそういう肩書きには興味ありませんし、文面から貴方も同じでしょう。



哲学をじっくりとしようと思えば、やはり毎日のように学校へ行ったり会社に行っていては無理でしょうね。
人から距離を置いて孤独な生活をして初めて見えてくるものがあるように思います。
僕も何年かそういう時期があって、恥ずかしながらこの哲学カテゴリーに回答させてもらっています。

世間から見れば孤独な生活しようとする人は、不登校だとか引き篭りだとか、まともでない人と評価されてしまいますが、僕はそのような人に敬意を持っているし、貧乏してもそういう生活に踏みこんでいく勇気にこそ哲学者の名前がふさわしいのではないでしょうか。
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