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世の中は功利主義が蔓延していると思います。

(1)プライドや意地などはない方が徳
利用されにくい人物となりますよね。 一般の人は給料を得る代わりに、手段や道具とみなされてどんなに努力しても商品価格として低コストにて売り易く販売利用されるだけです。 労働者の労働価値を利用しようとする人達は「プライドや意地」を利用して給料の元を得ようとする訳です。 結局「個人の尊厳など存在しない」様に思えます。

(1)金を得て対価労働を行う前提では
できるだけ怠けた方が、生きていく上でよっぽど楽だし、損をしないで生きられる。 従ってサラリーマン一般については、御自身のために重要なことではないでしょうか。

(3)労働に道徳有りますか
我が身を削って奉仕する程の価値が見あたらない世の中なれば、功利主義の点からみて正しいと考えるのが普通でしょう。 国民の労働価値が失われた時代に思えます。

一般の人の意見が聞きたいです
結局「世の中より親の方が、余程自分に価値を置いてくれる」ので、親の期待に答えて甘えた方が良い、という選択ができる人が羨ましい社会になりました。 つまり金持ちの子供ほど、ましな選択ができてていると思います。

仕事社会というものに道徳的意義はあるのでしょうか。

A 回答 (4件)

 人間は生物の一種である以上、その労働は、やはり可能な限り個体の現状維持以上を継続させる事を目的として行われているのではないかと思います。


 危険や飢餓などのマイナスを埋める為の補填、現状にプラスして能力を得る為の余価、この2つのタイプの充当を行う事のみに現状の能力を使うと言う考え方です。

 しかしどのような個体であっても任務遂行の能力には限界が存在する以上、ある程度以上の労働を行う事は出来ません。結果として、時には必要な充当を得る事が出来なくなります。そこで生まれるのが社会性とも呼ばれるルールです。
 このルールと呼ばれるものに従う限り、その結果として各個体には独り存在していた時以上の充当が成されるハズ、とされます。
 ルールに従う個体の集り=組織とは、各個体に対して充当を行う事が出来なくなればその構成要素を失う為、少なくとも常に何らかの充当をその構成個体に行う必要が有ります。少なくとも国家と呼ばれる組織が、その形態を決定する時に用いられる"本来の意味での"功利主義とは、こうした効果を狙って提唱されたものなのではないかと思います。
 これを国家ではなく企業と呼ばれる組織に当て嵌めた場合に置いても、やはり同じ現象を見出す事が可能だと思います。
 
 しかし、実はすでにこの段階で問題は発生しています。即ち個体と組織の対立です。
 個体とはそれが何であれ自己保存を最大目的としています。ですので各個体は、あくまで自身への補填をより有利にする為にのみ組織に加わります。
 その一方で組織はメタ的な意味では既に一つの個体ですので、参加個体とは違う論理に依って自己保存を目指します。
 参加個体とメタ個体の自己保存の為の方法が違う事は、それがどの組織であれ実際には不可避な問題なのではないかと考えます。同時に、その2種の利害を調整する何かが必要です。

 その何か?とは、いったい何なのか。その答えの一つとして、物質的な意味での自己保存から生まれる量的な幸福を追求する考え方…いわゆる利己主義とは違う視点からルールを提供するものとして、道徳が有るのではないかと思います。そして道徳を尊重する為の社会的な論拠として、本来の意味での功利主義が存在するのでは無いかとも思います。

 ここで個体とメタ個体の決定的な価値観の違いが現れます。個体は道徳を一つのルールとしますが、この場合のメタ個体…企業には道徳と言う名のルールは存在しない事です。
 何故なら、個体とは常に複数の目的を持った存在ですが、企業とは生産行動のみを目的とした個体であって、それ以外目標は持たないからです。別の言い方をすれば、人間には精神的な、社会的な死は有り得ますが、(合併に置いても組織は残る以上)企業には唯物的な倒産以外に死は有り得ないからです。
 その為、企業が自己保存の為にする行動は、基本的には全てにおいて読み替えられた功利主義に近いもの、つまりは非道徳的な方向性の強いものとなります。これが資本主義がしばしば必要以上の競争主義に陥る主な原因の一つではないかと思います。 


 …或いはそうした労働における道徳の劣位性を補う為に生まれたはずのものだったのが、あの共産主義だったのかもしれません。
 にもかかわらず労働者の天国を自認する国々が、国家パワーの物理的充足こそが原義的な功利主義よりも急務と完全に本末転倒な状態に陥ってしまったために、後は単なる経営の下手な企業と同じ存在に堕して倒産していったのかもしれません。
 そして更に残念な事には、共産主義が広い意味ではリベラリズムに則っていた事から、道徳の充足を良しとする考え方はその一方では物理的な充当において二流以下の状態へとメタ個体を変質させる考え方であると揶揄され、一般に不審を得る結果にリードされてしまいました。
 或いはこれらの考え方は、一般的な個体が生産目的に特化したメタ個体の行動を抑制する重要な手段ともなりえるものだっただけに、この様な観点に立った場合その顛末はひどく残念な事だと思います。

 ただ、現在では下に書かせていただきました、1,生理的な欲求、2,個人的な欲求、3,社会的な欲求については、かつては1が充足されれば2に。2が充足されれば3へと人間の欲求とは自然に移り変わるものであるとされていました。しかし現在では、大部分の人は1かせいぜい2の段階で満足し、実は3にまでたどり着く人はまれなのではないか?とされるように成ってきています。その意味では、生産メタ個体を抑制するコントロール・メタ個体を構築しそれを運営し続ける行為は、個人としてひどくリスクの大きい(自身の生理的な欲求とも闘い続ける必要がある)ものである以上は完全に社会的欲求に基づいた種類のそれであり、元より難しい選択だったのかもしれません。

 
 さて、ここから先は私見も最たるものですが、現在の労働道徳の不在性は生産手段(≒収入)以上に次の二つ、「すなわちグローバリズムの中で優位な地位を得る為にメタ個体を主とすべき」と「各人が充当を実感できるレベルを維持するためにも個体を中心とすべき」に価値観が割れている事が原因ではないかと考えています。
 前者を優先すれば生産手段や手法などが、後者を優先したなら人間性の回復や生産活動との調和が得られるのではないかと思いますが、しかしこの二つの考え方は恐らく鶏と卵の関係のようなもので、現代はやや「生産」を重視する風潮が強いのではないか?と考えられる事を除けば、どちらがより重要なかつ実効的なものとは軽々しく決め付ける事は出来ません。
 したがってその二つものを人間が求める以上は、恐らくは富と権力が極端に偏る事が無い限り、またその状態が長期にわたり固定化されてしまわない限りにおいて、その時々の都合によって「生産」と「人間性」のせめぎ合いが数十~数千年のスパンで繰り返されていくのではないかと思います。
 
 現在はまだ世界規模での企業展開が本格的に行われるように成ってからまだ数十年に過ぎませんので、そのような状態に対応する方法論や哲学自体が未だ未整備の状態です。ですのでそうした環境の中で競争を行う企業を細かくチェックできる機関については、残念ながら私は知りません。
 ただ現在はアメリカにおける様々な技術の革新がパワーの偏りを生み出しています。これが各地に伝播してグローバルな市場での競争が賑わう事になるか、或いは偉大なアメリカ様の後ろをその他の国々がトボトボと追いていく事になるかによって状況は変わってくると思います。
 その意味では現在が、ひいては近未来が鶏と卵のどちらの時代かを軽々しく予想する事はできません。故に残念ながら、現代の様々な意味での間化に対する対策が遅れていることに関しても、ある程度しかたの無い事であるのかもしれません。


 どちらにせよ、願わくはその様な動きの中で、社会のグローバル化に対応できずに不要なリスクを嬉々として抱え込んだり、或いは哲学が無いまま人間性を社会基盤の中心に据えようとして混乱したり…。そうやって気が付いたら一人だけ混乱していたなどと言う事に、この日本と言う国が陥ってくれない事をとりあえずは祈るばかりです。


 PS、大変お待たせした割りにやはり散漫な文章で申し訳有りませんでした。もしご指摘をいただけたならば、やはりなんとかフォローをさせていただけるよう努力したいと思います。

この回答への補足

日本の管理監督省庁にしろ、大企業管理機構にしても、各々個人が成果や結果をだすためにどの様な代償と犠牲を払っているのか、という点を問題にしません。 というより理解でき無い様です。
幸運と育ちに恵まれた人達が、公然とした道徳や倫理を自慢げに口にします。 他人を犠牲にして自分の手柄と収入を得ています。 こうした現実を若者の多くが目の当たりに見てきたと思います。 労働現場の若者には発言力が全くありません。 現場管理者達は「馬か鹿」並としか考え様がありません。 実に冷酷なものだと思います。

国家、管理機構への不信はますます拡大していくでしょう。 それを見て日本人の不利益を訴え、結局は一部の者の不当な利益を守るために国内は右傾化扇動されていると思います。 中国・米国同様にして、日本は愚民政治を実施していると考えます。

生理的不道徳も蔓延してきました。 個人的ヲタク幻想も蔓延していると思います。 社会に何を託そうとしているのかも見えてきません。 時折探すのも疲れます。 これが先進国の病なのでしょうか。

最近見えてきたものが一つあります。
<社会の停滞>と<欲求幻想の拡大>です。

補足日時:2005/12/30 00:31
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この回答へのお礼

戴きました内容については、同感というか共感させられる部分が多々あります。 散漫な文章というより、却って良いですよ。

同じ様に感じている人達が他にもいるんですよね。 

個々の内容について<私が疑問や不安、怒りを感じている社会の実態>を私がここで述べる必要も無いと思います。
>社会のグローバル化に対応できずに不要なリスク
>を嬉々として抱え込んだり、或いは哲学が無いまま
>人間性を社会基盤の中心に据えようとして混乱した
>り…。

ここの提案(要求)を分析していく能力が今の日本の管理機構に有るや否や・・・・、無いからアメリカ追従になっている様な気もします。 日本を虚無感に陥れている、だから無意味な右傾化や社会正義が、空回り宣伝されてしまう。 そんな気もしています。

自分なりのテーマにして再考してみます。
御回答ありがとうございまた。

お礼日時:2005/12/30 00:18

>(1)プライドや意地などはない方が徳


 これについて、私は個人的に「労働の成果への対価 + (労働時間内における)一部の人間性を放棄する事」この結果が報酬としての給料なのではないかと考えています。つまり労働をしている時間内においては、人間は個性と人間性を持った人間そのものではなく、単なる生産手段の一備品としての立場に身を置くとする考え方です。
 もしこの観点が正しいのであれば、プライドや意地はいわば機械の性能の一部のようなものですから、仕事内容とそれらの方向性が合致していれば有った方が良いのかも知れません。

>(2)金を得て対価労働を行う前提では、できるだけ怠けた方が…自身のために重要なことではないでしょうか。
 前述した観点からもう一度応えさせていただくすれば、事実上、労働時間内においては、人間性と言うものは存在する事ができません。
 しかし人間が人間で在る事を、個人が個人で在る事を放棄する時間的な或いは仕事内容的な質と量には、やはり限界が有ります。また当然の事ながら、"人間性放棄"の範囲がこれら限界に近づけば近付くほど、同時並行的に行われている労働に対して何らかの影響が現れる事になります。
 その意味では「対価を得る為の契約に反しない」と言う条件が守られる限り、『怠ける』事は「失われる人間性を補填する」「過度の"人間性放棄"によって(労働の)"成果"に不要な影響が出る事を防ぐ」と言う意味に置いて非常に重要なのではないかと考えます。

>(3)労働に道徳有りますか
 『国民の労働価値が失われた時代に思えます』と言う部分がこの疑問の趣旨だと捉えて回答させていただきます。
 仕事を「選ぶ + 行う」と言った行為は、1.社会的な要求(社会的な使命を感じて)、2.個人的な要求(個人的な価値観に応じて)、3.生理的な要求(衣、食、住を手に入れるために)の三つに支えられて行うものではないかと思います。 
 しかし、現在この国の市民層が二層化に向かっている…とされている事は質問者様もよくご存知ではないかと思います。
 現実の問題として…、社会的な或いは個人的な欲求ではなく、あくまで今日食べる為に仕事に就き、働いているタイプの人と、逆に社会的な、或いは個人的な欲求にしたがって働ける環境に恵まれた幸運な人とでは、特に現在のようにただでさえ労働環境が厳しい時勢らおいては、意識の隔たりはかなりのものに成るのではないかと思います。
 またそのようにして統一的な価値観が成り立ちにくい環境に有るところに加えて…、食べる為に働く人は比較的目標が低くなりがちで在ること。社会的には表面的にオンリー・ワンが持て囃されている事。日本の企業が"なぜ自分達は仕事を行うのか"といった企業哲学を示せない事。…など、全般に日本では"労働"と"哲学"を完全に切り離して考える傾向が強く、その事が、哲学の一種である"道徳"観念を労働の現場から遠ざける原因にもなっているような気がします。

 結局、今の日本においては
 「自分は一体何の為に、オンリー・ワンを捨てると言う苦痛を得なければ成らないのか?」
 と言う疑問に答えられる人が誰もいない状況です。
 意味不明な苦痛を避けようとするのは人間なら当然の行為ですから、どうしても答えが得られないと感じられれば、例えば親とか、例えばネット右翼とか、とりあえず目の前に居る何だか強くてご機嫌伺い程度のラクな作業だけで守ってくれそうな存在に頼ろう…と言う感情に多くの人がとりつかれる事は、ある意味仕方が無いのではないかとも思います。

 本来、仕事そのものには、それが何であろうと意味は無いのではないでしょうか。ただ仕事を人間が行った時に、そこには必ず意味が生まれてしまうものではないかとも思います。
 …その様にして生まれたものの中に、人間や仕事を繋ぐ様々な意義が生まれたとしてもおかしなものではありませんし。また、時にはそれらの意義に、「仕事に対して人間の優位性を保持する」事の必要から、何らかの道徳をかぶせる事が必要になる場合も、或いは有るのではないかと思います。

 ただ現実的な面を考えた場合、残念ながら、例えば今の日本の政・官・財のお歴々には、そうした観念的な仕事を行う能力が本当に有るのか?などについては、ひどく非常にも疑問に思えます。
 例えるならば、先に体だけ欧米化して、なかなか頭が付いて来れない…。それが現在の日本社会の姿なのかもしれず、その辺りにトヨタ方式や外資の労働条件に代表されるドライな功利主義が、かなり好き勝手に一人歩きする下地が有るのかも知れません。

 
 PS.
 全体に悪文で申し訳ありません。ご指摘を受けた場合は若干時間がかかりますが補足させていただきますので、ご指摘下さいますようよろしくお願いいたします。

この回答への補足

>時にはそれらの意義に、
>「仕事に対して人間の優位性を保持する」
>事の必要から、何らかの道徳をかぶせる事が
>必要になる場合も、或いは有るのではないか
>と思います。
企業倫理というものを考えます。 特にトヨタの様な企業に限りませんが、その「発注額」が膨大なものがある企業については、ここから「受注する企業」は皆その企業倫理に影響を受けます。
良かれ悪しかれトヨタに対し<自分の業界の都合>と自分が生き延びる論理という言い訳をしなければなりません。 こうした企業が
>外資の労働条件に代表されるドライな功利主義が、
>かなり好き勝手に一人歩きする下地が有るのかも
>知れません
ドライな功利主義に飲み込まれ無いよう、ひたすら「高額利益追求」する理由が「資本主義社会だから」という事がわかりません。
多国籍企業が創る「資本主義社会」に倫理規制をかけようという考えは国際社会には無いのでしょうか?

補足日時:2005/12/20 00:38
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。 政治哲学関係の知識がある方なれば回答をお持ちであると考えたのですが、なぜかここでは詳しい方の回答は無しになりそうな気がしておりました。
正直に申しあげますと、逆にsiirakansuさんの様な広範囲な真実への直観力をお持ちの方で無いと答え難い様な、質問の仕方をしてしまったのかな? という疑問もあります。 つまり、それほど難しくなる質問と考えていなかった訳です。 さて、

質問:人間に生きる意味はあると思いますか?
ここの御回答に感銘を受けてしまい、抜粋させていただきます。

元々、人間(昔の日本人)は狭い郷土内(幕藩体制下)での共生生活をしておりましたよね。
>そして自己を飽くまで保存し続けようとするもの
>で在るなら、それが例えどれほどまでに形而下
>かつ無二念なものではあったとしても、既にその
>行為自体が"目的"であり、かつ"目的に至る道筋"
>として、つまりは「"生き続けると言う目的を行
>っている主体"である生命を肯定する意味」とし
>て成り立っているのではないかと思えるからです。
生活と直結した経済活動と共生していく上で必要な道徳観念が相互に成立した空間内で生きていたと考えます。

戦後になって、米国経済に組み込まれてしまい
>個人的な生の意味については、誰もが持つ事の
>出来るものでは無い以上、あまり普遍的では無
>いような気もしています。
一方で「普遍的な道徳」という物は存在せず、過去にあった「共生生活空間内での道徳(戦争の原因?)を破壊し」ながら、あくまでも多様である共生生活の現実を許容して、一方で功利主義による人間という動物管理を推し進める現在の経済支配が、結局我々をどこへ導くのでしょうか。

P.S:後、再度補足させて頂きたく願っております。 何卒宜しくお願いします。

お礼日時:2005/12/18 06:45

そういう世界が欧米なんですよ、つまり日本もそこに近づきつつあるわけです、例えば昔ヨーロッパの労働者が日本の労働者に比べて怠けてる、とか言う人がいましたが、このまま日本が進めば怠ける日本人になる可能性が高いです、



ただヨーロッパなどでも、道徳がないわけではなく、会社というものや労働というものをそれほど、重要視していないだけで、それ以外の世界があって、まあ、言ってみれば会社と社会というものが分離しているのですね、社会的面で道徳とかを考えているわけで、日本もそうなるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

>(ヨーロッパなどで)会社というものや労働というものをそれほど、重要視していない
労働によって、生活経済の基盤を支えるという国民の実態を考える政治が無いとするならば、ヨーロッパの国々は政治的に国民の生活経済のことは考える必要が無いということですね。
>社会的面で道徳とかを考えているわけ
ヨーロッパの政治は、社会的道徳(倫理)による国民の法規制をおこなうだけで、企業倫理は野放しである。

という意味ですね。 そして日本もそうなる。
教えてgooは保守主義だとか右だとか、読む事あります。 やはりこうした問題については疑問も意見もなければ「教える」事も無い世界になっていくのですね。

お礼日時:2005/12/14 17:08

あなたの意見には一理以上あると思います。


だからこそ、功利主義の社会に道徳が必要とされていると思います。
ミスに乗じて巨額の利益を得た証券会社を美しくないと言った政治家がいました。
この件については大賛成です、与謝野さん。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

まず訂正
(1)→(2)
します。

>だからこそ、功利主義の社会に道徳が必要とされていると思います。
その様な気がします。 これは政治意志の問題である様な気がしましたので、ここで質問させていただきました。 カテ違いとなった場合にはお詫び致します。

お礼日時:2005/12/14 01:38

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