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こんにちは。

キリスト教各派の血に対する解釈を教えてください。
例えば、血の入ったものは食べないとか、輸血をしないとか・・・。根拠も教えてくださると嬉しいです。

自分が属していない宗派がどのような見方をしているのかご存知ならコメントして頂きたいですが、批判はやめてください。

よろしくお願い致します。

A 回答 (15件中1~10件)

#1です。

なお、以下はあくまでも私個人の聖書理解ですので、その点はご注意下さい。大きくは外してないとは思いますが……。

旧約聖書レビ記17章などで、神が「血を食べてはならない」とした背景には、#2さんが仰られた食品衛生上の理由もありますが、より本質的には、
○ 異教でしばしば見られる「人間や動物の生き血を飲む」儀式の模倣に繋がるため。
○ 血は、まず私達の罪の赦しのための、贖いの代価として献げられなければならないため。
が挙げられます。

確かに一切罪を犯さず、旧約聖書に書かれた戒めを生涯完全に守り通せば、私達は天国へ行けると神は約束されました。しかし現実には、それは私達人間には絶対に不可能なことです。むしろこの約束は、私達が罪人であること、神の恵みと赦し無しには絶対に救われないことを自覚させるためだったのです。
神に私達の罪を赦して頂くためには、その罪を代わって負う犠牲が必要です。そのため旧約聖書の時代には、定期的に動物をいけにえとして神に献げる必要がありました(ユダヤ教徒は、今もこれを行っています)。
――イエス・キリストが来られるまでは。

イエス・キリストが十字架の死を遂げたのは、私達の全ての罪を負い、それまでの動物によるいけにえのような「まがい物」ではなく、たった一度だけ支払えばよい「完全なるいけにえ」として自らが献げられるためでした。
このキリストの完全な贖罪により、その救いのみわざに与った私達クリスチャンは、過去に与えられた戒めから完全に解放されました。最初に挙げた「血を食べてはならない」も含めて。


では、使徒15:29の意味は何か?

使徒15章の記事は、クリスチャン内部で発生した論争に関するものです。即ち、「ユダヤ人クリスチャンがずっと守ってきた旧約聖書の戒めを、非ユダヤ人クリスチャンにも守らせるべきだ」と。
これに対し、ペテロやパウロたち教会指導者は、「ユダヤ人さえ守れなかった戒めを、非ユダヤ人に押し付けるとは何事か」と批判しますが、戒めそのものは決して間違ったものではない(もはや強制はされないが)ことを踏まえ、各地の教会にこう書き送ります。

「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
(使徒の働き15:28~29 ※新改訳聖書より引用)

つまり、食血を避けることは――衛生上も、異教の習慣から遠ざかるという意味からも――決して悪いことではないので、ユダヤ人と非ユダヤ人との無用の対立を避ける上でも(むしろこれが本旨)、これまでのユダヤ人の慣習に倣ってこれからも続けた方がいいと、当時の諸教会に勧めたに過ぎません。(もちろん不品行は、別の個所で罪であるとはっきり言われているので別ですが。)
この聖句を今の私達に適用するとすれば、「戒律・因習から解放されてはいるが、周りの人達の習慣(信仰に反しない限り)に逆らって無用の対立を招くことは良い証しにならないので、自主的に尊重せよ」ぐらいの意味でしょう。

少なくとも、「○○を食べるな・飲むな」といった制約は、私達クリスチャンには存在しません。
確かに、酒・たばこの類は健康に有害ですから、避けるようには勧められますが、それイコール「罪」というわけではありません。
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この回答へのお礼

丁寧な回答を有難うございました。

食血を避ける理由が、衛生上も、異教の習慣から遠ざかるためであるという聖書的根拠はあるのでしょうか?

それと、使徒15章29節に「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。」(新世界訳)
とありますが、偶像にささげられた物と淫行(結婚関係外の性行為)も、現代には適用されないという解釈でよろしいのでしょうか?「淫行」と「不品行」の訳の違いは仕方がないですが・・・。

質問ばかりですみません。教理がどっちが正しいということでなく、素朴な疑問と受け止めてください。

お礼日時:2005/02/20 18:35

#1・#6です。



>食血を避ける理由が、衛生上も、異教の習慣から遠ざかるためであるという聖書的根拠はあるのでしょうか?

あくまでも「食血を避けることは、決して悪いことではない」ということを**今日の科学的(医学的、民俗・歴史学的)見地から**説明する意図ですので、もし誤解を招いたのであれば、該当部分については撤回します。


>それと、使徒15章29節に「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。」(新世界訳)
>とありますが、偶像にささげられた物と淫行(結婚関係外の性行為)も、現代には適用されないという解釈でよろしいのでしょうか?「淫行」と「不品行」の訳の違いは仕方がないですが・・・。

これについては、#13さんが仰られた事に私も同意しますので、私から付け足すことはありません。#13さん、ありがとうございます。


当初のご質問には、既に答えておりますし、これ以上は文字通り神学論争であり、OKWebの場には相応しくないと考えますので、これ以上の発言は控えさせて頂きます。
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この回答へのお礼

tabideさん、たびたびの回答をありがとうございました。教理的なことを平和的に論じ合うことは、なかなか難しい事ですが、tabideさんを始めとして、みなさんが広いお心で協力してくださったことに感謝しています。いずれ、何かしらの教理についてお尋ねすることがあるかもしれませんが、是非、お力をお貸しください。
このたびは、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/25 00:40

No.3です。



mickey_gooさんの質問のお陰で考える機会をもてたことを感謝します。


>神のご意思に沿ったキリスト教って、一つだと思いませんか?

はい。
というか神の意志は一つのはずです。
ユダヤ教のそれまで神の意思としていたものを、イエスは否定しました。
そこからはユダヤ教とは違うキリスト教ができたと思いますが、そのほかにもいろんなイエスの解釈をする宗派ができて、カソリック(普遍)が一番勢力が強くて、その教義が主流になり、イエスと同じようにそれは正しく無いとした派を次々異端とみなしてしまったんですよね。
カソリックは当時の権力者の擁護を受けめきめきと勢力を伸ばしていきました。
総本山はバチカンでしたっけ?
つまり力で勝った宗派が実権を握って、イエスと同じように「それは神の意思とは違うんじゃないか」という人たちを異端として迫害してしまいました。
(と私 思っているんです。その疑惑を解くために調べているんですが、なんせ2千年の歴史を紐解かなきゃいけないので。・・・いや6千年くらいの歴史かな?)


話はそれましたが、私はそれまでキリスト教は温厚な宗教だと思っていました。
キリスト教に対して???って思うようになったのは、今のブッシュ政権がキリスト教の強力なバックアップの基盤の上に成り立っているという事を知ってからです。

さらにアメリカで20年間に50人近く無残な殺し方をした人を、裁判の席で神父が「わたしは あなたを 許します」と明言したことなんです。
その時、犯人はそれまでそっぽむいていたのに、わなわなと口を振るさせ涙したんです。

イエスが磔になっている隣の人に言ったものと同じで、この犯人は泣いたことで既に天国にいることになります。

キリスト教の原罪は、人間は永遠の命があったのに、神のいいつけに反目したことから、限りある命に変化したことだったと思います。
つまり死が罪に対する神からの罰だとこの宗教は思っているのだと思います。
わたしは人間はいつか死ぬということを知っているので、人間全員に平等に訪れる死が罰だという概念は無いのですが。
キリスト教では肉体と霊と二つの命があるという解釈なんですよね。
で、肉体は全員滅ぶが霊は滅ばない人もいるという概念ですよね。


次に「血を分けてはならない」というものが聖書のどこかに書いてあったと思います。
これはアダムとイブの息子が兄弟を殺したことを示しているのではないかと思います。
つまり共食い 殺人をしてはならないと言っているんだとわたしは取れるのです。


従って血に関するエホバの証人の解釈と私の解釈は違います。
しかしエホバの証人ではこれが真理であると思っているとしたら、それも真理なのではないかなって思います。
本人の意識が無い状態の時、家族は輸血をすれば助かると思っても、輸血を拒絶しますよね。
それは子どもの命を神に託すことで神に従順であり続けるってことだと思います。
つまり人間ごときが「神様息子の命をとらないで」と訴えるなんてとんでもない。
「神様の意志に私たちは従います。神が私の息子が欲しいのならどうぞ喜んでお捧げします。もし必要でないのなら息子は助かるでしょう」という姿勢を貫いているのだと思います。
つまりあくまで神の僕であり続けることで、信仰を貫くのではないかと思います。

わたしはこの信仰においてそれも一つの真理であると思います。
「人間を思わず神を思え」
イエスの言った言葉ですよね。

でも、私はどっちを取るかというと、人間を取りたいんですよ。
なんせ今のキリスト教を100%真理だとは思っていないので。
したがって信者じゃないです。
ただの考える人です。
(文を読めば言われなくてもそれは明白だと思いますが ^^;)


信者ではない私は、自分が心を痛める人が助かる方法があるのなら、祈らずやれるだけやろうと思うのです。
それで家族が助かったが輸血により病気をもらってしまったら、それも引き受け残された人生を共に歩みたいんですよ。

子どもが敬虔なエホバの証人であるとして、
輸血により助かった子どもが「よくも輸血したな これじゃあ天国にいけないじゃないか」と憎まれてたら、「あなたは自分の事を思って神の事を思っていない」という言葉を流用すると思います。

「あなたが助かったのは神のご意志で、あなたはここに留まって まだやるべきことがあるからじゃないんですか。」「あなたが天国にいくのかどうかは私が決めるのではありません あなたは神を信じていないのですか」と言うんじゃないかと思います。
(ちょっとはこの宗教の考え方がわかるのでどういえば本人は輸血により苦しまないですむかわかるので)


万事策は尽きて手のほどこしようが無い状態なら、なるべく苦痛が取れる方法はないのかと考え、側にいてやりたい。
一緒に悲しみ、気分のいいときは一緒に喜びたいんです。
その人の命が消えるまで。


血の解釈からそんなことまで思わせていただきました。
質問してくれ、考えを伝えてくれありがとうございました。
大変参考になる考えを沢山書いていただき勉強になりました。
それをまた掘り下げて考えさせていただきたいと思います。

本当にありがとうございました ペコリ。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。
kigurumiさんは、考える人ですねぇ。

> キリスト教に対して???って思うようになったのは、
> 今のブッシュ政権がキリスト教の強力なバックアップの
> 基盤の上に成り立っているという事を知ってからです。

「剣を鋤の刃に、槍を刈り込みばさみに・・・(イザヤ2:4)」という聖句があるように、キリスト教が、戦争でどちらかを支持したり、クリスチャンが兵役につくということはありません。好戦的な政権を強力に支持しているキリスト教があるとすれば、それは、先にお話した「神のご意思を行っていない」宗派だということです。全てのキリスト教が好戦的な訳ではありません。その宗派が何を行っているかは、真のキリスト教を見分ける手がかりなのです。

> アメリカで20年間に50人近く無残な殺し方をした人を、
> 裁判の席で神父が「わたしは あなたを 許します」と
> 明言した時、犯人はそれまでそっぽむいていたのに、
> わなわなと口を振るさせ涙したんです。
> イエスが磔になっている隣の人に言ったものと同じで、
> この犯人は泣いたことで既に天国にいることになります。

アメリカの件は、犯人が悔い改めたから許されたのか?その辺の順序が分かりませんが、イエスの隣にいた人については、泣いたからというよりも、イエスに信仰を示したので許されました。「じゃあ、被害にあった人たちが可哀相じゃないか!」と思われるでしょう。しかし、神は再びチャンスを与えてくださいます。

> キリスト教の原罪は、人間は永遠の命があったのに、
> 神のいいつけに反目したことから、限りある命に変化
> したことだったと思います。つまり死が罪に対する神からの
> 罰だとこの宗教は思っているのだと思います。
> わたしは人間はいつか死ぬということを知っているので、
> 人間全員に平等に訪れる死が罰だという概念は無いのですが。

「罪の罰が死である」という点は正解です。エホバの証人は、イエスの死によって、アダムの罪が取り除かれ、罪の罰である死もなくなる(啓示21:4)と理解しています。人類はアダムとエバのように再び地上で永遠に生きる(詩編37:29)機会が開かれているのです。そして、死んだ人は、地上に復活(使徒24:15)します。14万4千人(啓示14:1)という限られた人だけが天に行きます。アダムとエバが罪を犯さなければ、人類は地上で永遠に生きていたはずなのに、なぜ、皆が皆、死んで天に行かなければならないと、多くの人は信じているのか・・・私には、よく分かりません。しかし、永遠の命なんて非現実的に思える話を突きつけられた皆さんの方が戸惑っておられるんでしょうね・・・。話がそれてしまいましたが、地上での永遠の命という前提で考えると、復活の見込みのない永遠の死は、罰として成立するということです。

こうした話になってくると、kigurumiさんが書いてくださった輸血云々の話も違ってきますよね?詳しくは、エホバの証人に、無輸血治療に関するビデオを貸してもらってください。簡単に説明するなら、近年、ますます無輸血治療が発達しているので、「輸血しなければ死ぬ」といった状況はほとんどありません。それと、エホバの証人は、血を避けますが、それ以外の治療や手術は、積極的に受け入れます。

お耳を傾けてくださってありがとうございました。

補足日時:2005/02/25 00:35
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私個人の考えではあるのですが、使徒15:29に関しては、概ねNo.6の方が書かれているような理解をもっていました。



No.6の方の「回答に対するお礼」の中で、質問された方は「偶像にささげられた物と淫行(結婚関係外の性行為)も、現代には適用されないという解釈でよろしいのでしょうか?」と書いておられます。

「淫行」については、No.6の方がすでに回答に書かれておられるように、「不品行は、別の個所で罪であるとはっきり言われている(No.6の方の回答文からの引用)」ので、不品行・淫行(英語では欽定訳、新世界訳ともに "fornication")については現代に適用される、と私は考えています。

「偶像にささげられた物」についてですが、1コリント8章に(新世界訳聖書の日本語版がないので、ウェブ上の英語版を利用しました。)"But food will not commend us to God; if we do not eat, we do not fall short, and, if we eat, we have no credit to ourselves." (1 Corinthians 8:8, New World Translation of the Holy Scriptures) と8節にあり、さらに、"Therefore, if food makes my brother stumble, I will never again eat flesh at all, that I may not make my brother stumble." (1 Corinthians 8:13, New World Translation of the Holy Scriptures) と13節にあります。これらは、偶像にささげられた物を食べることが、「唯一の神以外にいかなる神もいない」(1コリント8章4節より、新共同訳)ことを私達が知る限りにおいて、それ自体、問題ないことを教えていると考えています。

血に関してですが、No.6の方が書かれているような、15章が書かれた背景を考慮したとき、「血」も「偶像にささげられた物」と同様にみなされる、ということが聖書の教えではないかと私は思っています。

これらのことに関しては、No.3の方の回答中にあるURLのサイト内に、使徒15:29に関する記述があり(以下の参考URL)、偶像にささげられた肉に関して、さらに、1コリント10章(25-27節など)などが参照されていました。

もし、よろしければ、使徒15:29と1コリント8、10章にある偶像にささげられた物に関する記述に関して、エホバの証人の方の理解を教えていただければ幸いに思います。

参考URL:http://www.geocities.com/Athens/Agora/2105/apost …

この回答への補足

回答をありがとうございました。

> 使徒15:29と1コリント8、10章にある偶像にささげられた物に関する記述に関して、エホバの証人の方の理解を教えていただければ幸いに思います。

私の理解の範疇でお答えします。

まず、使徒15:29の4つの事柄に関しては、
・この布告は、「次の必要な事柄のほかは・・・」(使徒15:28)という書き出して始まっている
・布告の結びには,「これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」(使徒15:29)と述べられています。
「必要」「注意深く身を守って」という言葉に注目して、モーセの律法以後のクリスチャンにも課せられている要求と解釈しています。

この布告が出されるにあたっての論争の争点は、割礼を施すべきかどうかという点でした。使徒15章の冒頭からの文脈が示す通りです。割礼が混乱の原因であり、それ自体に意味がないので、もう施さなくてよいということになりました。血に関する見方が論争になったとは一言も書かれていません。血も割礼と同様に、重要でない事柄なら、この四点に含めなかったでしょう。エルサレムの年長者たちもこの点を考慮するにあたり、本当に求められている事柄と無駄な事柄を精査し、この結論に至ったと思われます。血に関しては、#5の方の回答にある通り、規範でもありますが、命同様に神聖なものとみなす神の見方と同じ見方をするゆえに乱用しないというのがエホバの証人の立場です。

「偶像にささげられた物」に関してですが、コリント第一 10:14‐22には、
「偶像礼拝から逃げ去りなさい。……犠牲のものを食べる人は,祭壇と分け合う者となるのではありませんか。では,わたしは何と言うべきなのですか。偶像に犠牲としてささげられるものには何か意味がある,また,偶像には何か意味がある,と言うべきでしょうか。いいえ,そうではありません。諸国民が犠牲としてささげるものは,悪霊に犠牲としてささげるのであって,神にささげるのではない,と言うのです。それでわたしは,あなた方が悪霊と分け合う者となることを望まないのです。あなた方はエホバの杯と悪霊の杯を共に飲むことはできません。『エホバの食卓』と悪霊の食卓に同時にあずかることはできないのです。」

#13さんのご質問に答えるにあたり、この聖句を準備してから、#13さんのリンク先を拝見しましたが、リンク先の文章には、この聖句に関する解説が見事なまでに欠落しています。不思議です。この聖句を読んで明らかなように、偶像に犠牲としてささげられた物を食べることは悪霊の食卓にあずかることになるので、それを避けます。動物の一部は偶像に犠牲としてささげられ,ある部分は祭司たちのものになり,当の崇拝者は祝宴のためにその幾らかを取りました。しかし,肉の一部は市場で売られることもありました。クリスチャンが偶像の神殿に行って肉を食べるのは,たとえ儀式の一部として食べるのではなかったとしても,望ましいことではありませんでした。他の人をつまずかせたり,自分が偽りの崇拝に引き込まれたりする恐れがあったからです。(コリント第一 8:1‐13。啓示 2:12,14,18,20)動物を偶像にささげても,肉そのものは変わりません。ですから,クリスチャンは市場でそれを幾らか買い求めることができました。また,だれかの家で出される肉がどこから来たかということを尋ねる必要もありませんでした。しかし,もしだれかが,それは「犠牲としてささげられたものです」と言うなら,クリスチャンはだれもつまずかせないようにするためにそれを食べませんでした。

ですから、リンク先の解説にあるコリント第一10:25-28の「何でも肉市場で売っているものは、あなた方の良心のために、何も尋ねないで今後も食べなさい。・・・不信者のだれかがあなた方を招き、あなた方が行きたいと思った場合、自分の良心のために、何も尋ねることなく、何でも自分の前に出される物を食べなさい。しかし、もしもだれかが、『これは犠牲としてささげられたものです』とあなた方に言うなら、そのことを明かした人のために、また良心のために、それを食べてはなりません。」との「何でも食べなさい」という言葉は、血抜きの処理をしてあるなしに関わらずという意味ではなく、偶像に犠牲としてささげられたものかどうかにかかわりなくという意味であることが分かります。

このような回答でよろしいでしょうか?不足な点がありましたら、さらにご質問下さい。

補足日時:2005/02/24 14:34
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そうやって知は開発された.



ネチネチと凝り固まって

大地となった.

知となった.

知があって人は生きてこられた.

しかし

地だけになれば

食うがなくなる.

空がなくなる.

絶対無の世界へ.

駄洒落の世界になってしまった.

削除されるかもしれない.
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穢れた魂の取引の歴史.



誰との?
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No.3です



>エホバの証人は、神のみ子イエス・キリストの教えに従っているので、キリスト教だと私は思います。

すいません。
私はイエスは神の子ではなく私たちと同じ人間だったと思っていて、エホバの証人ではイエス=神という位置づけではなく、イエス=予言者だという位置づけだと思っていました。
おまけにマリアと夫婦同然でマリアはイエスの子どもを身ごもってフランスに行ったって思ってます。
これじゃあ人間になっちゃいますね。
イエスの子どもなどいなかった。だって神様だから。
従ってイエスの子孫はこの世にはいない。
それが正解ですよね。 ^o^

参考になりました。



エホバの証人ではイエス=神であり、エホバの証人はキリスト教なんですね。
プロテスタントですよね?
それともカソリックとプロテスタント以外、例えばグノーシス主義のようにカソリックから異端とされた部類に入るのでしょうか?
よろしかったらもうちょっと教えてください。
あら?
 ↓
>どの宗教がキリスト教で、どの宗教がキリスト教でないかかは、人間ではなく、神とイエスが決めればよいと思います

すいません またまたゴメンなさい。
神とイエスって別々ですか?
神とイエスと二つに分けたってことは別ってことですよね。
またわからなくなりました。
つまり決める人次第で、世の中がやっぱり決まるってことですよね。
人間は決めることができない?
うーーん 例えば信号が赤なら止まりますよね。
ところが人間が「神が赤なら進め」といったなら、あなたは歩行者がいたとしても進みますか?
神の御心だと信じ跳ね飛ばしますか?

いえね。実際いるんですよ。年に何人か神の声を聞いたとして人を殺している事件あります。
彼らは神の指示に従って人を殺したとして自分の正当性を主張しています。
宗教では彼は聖人でしょう。
でも、人間の世界では殺人なんですよ。

キリスト教では人間界でもっとも罪が重い人こそ神が愛する人ってなってますよね。
罪が無い人にはそっぽむいていますよね。
どうでもいい まるで存在する価値の無いような言い方ですよね。
でもね、そういう人によって殺人者は生かされているとしたら、やっぱり神の御業ってことですよね。
この前も43人だか拷問してレイプしたあげくに殺した人が神に許されて命を救われましたよね。
殺された遺族には無関心でしたよね。
すごいって見ていて思いました。
これぞまさに罪深い人のためだけに存在価値のある宗教だって思いました。
どんどん人々は罪深くなり、みんな殺しあっちゃうと確かにこの理論でいけばもっとも神に愛される人間になりうるって思う。でも人間ほぼ絶滅しちゃうような気もします。
まるでバトルロワイアル。

産めよ増やせよ そして殺しあえ。
神の御心ならあなたは人を殺していって罪をどんどん重くしていきます?
すると最大級の救いになりますよ。
懺悔さえすれば。


あら?主題からそれちゃいましたね。
失礼しました~

この回答への補足

つづき

>神とイエスと二つに分けたってことは別ってことですよね。
>つまり決める人次第で、世の中がやっぱり決まるってことですよね。

人が決める・・・。というかですね、聖書にそう書いてあるので、そう信じている訳です。上にもそう信じる根拠となる聖句を引用しているように。最初に、「どの宗教がキリスト教で、どの宗教がキリスト教でないかかは、人間ではなく、神とイエスが決めればよい」と書いたのは、本当に神がいるとすれば、神のご意思に沿ったキリスト教って、一つだと思いませんか?「この方針で行きなさい!こうした方法で、わたしを崇拝しなさい!」と、手引きとなるぶ厚い聖書が与えられている訳です。しかし、宗派によって、いろんな解釈がある・・・。例えば、戦争に参加する宗派もあれば、参加しない宗派もある。神の目から見たら、どっちも正しいはずないですよね?ですから、神は、あっちも宗派も、こっちの宗派も容認する訳でなく、「この宗派が、ワタシの意図したやり方を踏襲している!」と一つの宗派しか認めないし、今後も、正しい道を進むように導くはずです。それか、全部のキリスト教が間違った道を歩んでいる可能性もあるかもしれませんね。ですから、キリスト教を奉じるなら、神の目から異端とされないよう、生活のあらゆる面で、聖書をあてはめて、「何が神のご意思なんだろう?」って、考えたり、祈りで導きを求めたりして、探求し続けていくことが不可欠だと思います。

>キリスト教では人間界でもっとも罪が重い人こそ神が愛する人ってなってますよね。

これは???です。
根本的に「罪」の解釈が違うと思うんですよね。日本人の「罪」の解釈は、「法に触れたとき」だと思います。聖書の「罪」というのは、「神のご要求に外れたとき」です。神の完全なご要求を、不完全な人間が完全に守ることはできない。それで、全人類は、罪人なのです。その罪に重い軽いはありません。例えば、「敵をも愛しなさい」という聖書の言葉があります。本当の意味で、敵をも愛せてるかというと、努力はしていますが、私は、全く自信ないです。ですので、私は罪人です。ちなみに、この罪を償うのに道を開いたのが、イエスです。

>罪が無い人にはそっぽむいていますよね。

私たちは、世界の234の国や地域の人々に、聖書の音信をお伝えしています。全ての信者が、この活動に携わっており、一人でも多くの人に知っていただくよう努力しています。こうした形で関心を向けています。それを受け入れるか受け入れないかは、当人の問題です。

>産めよ増やせよ そして殺しあえ。
>神の御心ならあなたは人を殺していって罪をどんどん重くしていきます?
>すると最大級の救いになりますよ。
>懺悔さえすれば。

うーん、すごく過激ですねぇ。マスコミの一面的な報道だけで、教理を解釈していませんか?
大量殺りくや、集団自殺する宗教について時々、報道されていますが、そうした組織って、規模が割りと小さく、「自分は神だ!」という、すごいカリスマをもった人間の教祖を立てているところがほとんどだと思います。心理学の授業で、自分を神様だと思い込んでいるのは、一つの病気として扱われていた記憶があります。人間の教祖を立てていれば、その人の気分次第で、そうした過激な事件へと発展することはあり得るかもしれませんね。しかし、すべてのキリスト教がそうかというと、そうじゃないですよね?例えば、カソリックが組織的に過激な事件を起こすことは考えられないと思いません?
現代、神からの声が聞こえることはありません。「予言や異言は廃された」と書かれているので、神の使いと称する人が語ることもありません。全て聖書が導きです。聖書には、殺人など、人を傷つける行為を容認していませんから、「人を殺せ」という神の声のようなものが聞こえても、それは、神の声でないと判断します。

補足日時:2005/02/21 11:47
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

補足しますね。

>エホバの証人ではイエス=神であり、エホバの証人はキリスト教なんですね。
>プロテスタントですよね?
>カソリックから異端とされた部類に入るのでしょうか?

エホバの証人は、カソリックからは異端とみなさています。プロテスタントでもありません。人間的な解釈や伝統を排除した原始キリスト教を復興させることを主眼においています。

神とイエスは別物です。神は、エホバという名前を持ちます。古代の聖書の写本にはYHWHという神のみ名が何回も出てきます。現在、一般に使われている聖書の多くは、YHWHを「神」という言葉に置き換えています。YHWHには、母音がないので、正確にどう発音するか判りませんが、「神」という言葉は、所詮、代名詞に過ぎない。エホバの証人は、どの神に仕えているのか特定するためにも、エホバ(英語:ジェホーバ)という読み方を用いるという方針を貫いています。聖書中に、「神のみ名を誉めたたえよ。」とか、「神のみ名に栄光を帰せよ。」という表現があるので、神ご自身が、名前を用いた賛美を望んでおられることが分かります。
イエスについてですが、イエスの生涯を扱った聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を読むと、イエスが天の父、神に祈っている場面がいくつもあります。また、神がイエスに「これはわたしの子。わたしは、これを是認した。」と宣言される場面もあります。従って、イエスは、神のみ子です。ですから、イエスは、神ではなく、崇拝の対象ではありません。しかし、イエスの教えは、完全ですから、多くを学べますし、神の特質を完全に反映した方なので、イエスについての記録を通して、神がどんな方なのか、推察することもできます。

キリスト教の多くの宗派は、上記のような考え方ではなく、三位一体を採用しています。つまり、神・イエス・聖霊は、別個の物ではなく、1つなのだそうです。この点の詳しいことについては、その道の方にお聞きください。

つづく

お礼日時:2005/02/21 11:47

いくら壁を厚く塗っても



根源は変わらない.
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No.4のnasebanaruです。

カソリックの儀式(礼拝)についての質問にお答えします。
●日時:毎週日曜日
●何をするか:神父さんの話を聞く。聖歌を歌う。後述の儀式をする。寄付をする。周りの人と握手。「神があなたとともにありますように」みたいなことを言い合う。
●儀式の流れ:神父さんは祭壇の横にある棚から聖杯を取り出し、懐から出したタバスコソースみたいな形の瓶からワインを注ぎ「このワインは聖なるキリストの血である」と言い、祭壇の上で堅くて薄いパンを割って見せ「このパンはキリストの肉である」と言います。信者は立ち上がって神父さんとお手伝いさん(不特定)の前に並び、パンを貰ったりワインを飲んだり。子供はワインは選べませんでした。
●どんなパンか:私たちのいただくパンは割られたものと違います(専用の、もっと口に入れやすいものが用意してありました)。並んだ人は順番に目を閉じて口を開き、舌を出してパンをいただきます。口に入れたら(乾燥したパンなので舌にくっつきます)軽く会釈して、右手で十字を切り、席に戻ります。
●この後:寄付、握手、最後の聖歌、退場と一連の流れが出来ていました。
プロテスタントの教会では、半年通いましたが、その中で一回しかこの儀式をやりませんでした。聖書を読むのと歌を歌うのが主でした。一人一人いただくのではなく、回ってきた小さなコップとパンを手に取って一斉にやりましたし。(でも、ここのはアジア人が集まってやっている所だったので、ちょっと変わってるかもしれません……)

他の制約事項は、カソリックでは神父さんによって話が違いました……「同性愛は地獄に堕ちる」との過激なものから、「怠惰はいけない」と一般的なものまで。聖書を読むことはほとんどありませんでした。
一般的な答えですいません(>.<)!
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この回答へのお礼

回答をありがとうございました。

儀式を毎週やっているということにビックリしました。
プロテスタントの教会で1回しかやらなかったのは、恐らく、1年に1回、その儀式をやっていて、たまたまその日にあたったのだと思います。通常、記念日というのは、年に一回、祝うものですからね。

聖書を読むことはほとんどなかったというのは、ちょっと驚きです。

お礼日時:2005/02/20 19:22

贖罪の証は



理屈ではない.
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