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中南米出身の考古学専攻の大学生と話したときのことなんですが、彼いわく侍の大多数が同性愛者もしくはバイセクシャルだったといいます。身分の高い侍が若い男と遊んでいたといっていました。確かにそんな話は聞いたことがありましたが、彼の主張によると大多数だそうです。大多数というのだから少なくても過半数とのことだと思いますが、そんな仮説は成り立ちますか?
個人的には(なんの証拠もありませんが)あまり信じたくない悲しい仮説(もしくは事実)ですが、、、
もしどなたか、これにどういされる方、もしくは反対される方、どちらでも良いので証拠に基づいた情報をお持ちの方がいらっしゃったら教えてください。
宜しくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

 こんにちは。



 やはり、日本の男色といえば、寺院の稚児か、武士の衆道かを思い浮かべるのが普通ではないでしょうか。
 キリスト教圏における男色というのは、過去において、あきらかに悪であり罪であり、近代にいたっても、変態性欲、つまり病気だと評価されて来ましたが、ほんの百数十年前までの日本では、男色はけっして日陰の存在ではなく、きっちり、社会制度に組み込まれた行為だっそうです。

 過去の男色は、現代のホモやゲイとは、少々、ちがうもので、一番ちがうのは、大方、バイセクシャルだということです。女がだめで、あるいは女がいやで男相手、というわけではないのです。

 現に、武田信玄が男に書いたラブレターも発見されていますし、中世から戦国時代、江戸時代初期くらいまでの男色は、やたらに目立ちます。
 来日したイエズス会の宣教師が、それを嘆いたりしますが、もちろん、それ以前からも、日本列島では男色が盛んでして、一般にあまり知られていないのですが、院政期の男色は、唖然とさせられるほどのものです。

 日本で男色が華々しく流行りはじめたのは、72代白河帝のころからです。この時代の左大臣、藤原頼長というお公家さんが、「台記」という、今読んでみますと、すさまじいばかりの男色日記を残していますが、別に頼長は、男色日記のつもりではなかったわけでして、そもそも上流貴族の公卿日記といいますのは、子供や孫に、宮廷行事や人間関係、政界遊泳の参考資料となるよう、書き残すものなのです。
 つまり頼長は、乱脈な男色行為を、少しも恥とは思っていなかったわけでして、恥どころか、そこに政治的行為である側面を意識していればこそ、子孫のために書き残したのでしょう。
 
 なにしろ、帝をはじめとして、上皇、摂政関白、大臣、ほとんどすべての貴族がバイセクシャルでして、しかもたっぷりと私情をまじえて、えこひいきの人事を行いますから、当然といえば当然のことなのです。「夜の関白」とか「男のおぼえ」とか「君臣の交わり」とか、やっかみとともに、皮肉がとびかったりもします。
 
 ところで、一般に、貴族と武士は対立しているもの、というイメージがあると思うのですが、武士の中でも、源平の中心にいる武家の頭領は、いわゆる受領層、つまり中下級の貴族なのです。
 それで、つまるところは、上流貴族のお相手を務めておりまして、木曽義仲のお父さんが左大臣頼長と関係しましたことは、はっきり日記に出てきますし、源頼朝も少年のころ、後白河帝(崇徳帝の弟)の相手をした可能性が高いそうです。
 
 後白河帝が、またこれ、すさまじいお方で、平治の乱の原因には、このお方の度を超えた男色がからんでいるそうです。男色が原因で内乱が起こるなんて、今では信じられない話ですね(笑)
 
 武士といえば、源氏の頼朝だけではなく、平家の方も、平重盛とその子息の資盛、親子どんぶりで後白河院の愛人だったといわれています。
 そもそも平清盛のお父さんは、白河帝に体を差し出し、平家興隆のきっかけをつくったようですし、院政期における武家の台頭は、一面、男色にささえられています。
 
 男色の歴史を見ていきますと、武の時代といいますか、争乱が多くなると同時に、男色も華々しくなってくるような気がします。院政期もそうですし、中世から戦国にかけては、まさに男色の花盛り。江戸時代、元禄すぎて次第に下火になった男色が、幕末でまた盛り上がる、というのもありますが、これはまた、薩摩や土佐という、男色最盛地帯の下級武士が活躍したという、特殊事情もあるかもしれません。

 これだけ歴史家の研究で明らかになっているということは、男色は近世までの日本の文化の一部と言わざるを得ないですね。ん~ 
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侍といわず、戦前期までは同性愛、擬似同性愛ともに、現在ほどアレルギー反応を示されるようなものではなかったようです。


侍の大多数は妻帯してますし、異性愛者だと思いますけれど、男色への強い拒否反応がない、という一点が現在の大多数の日本人と大きく異なる点かと思います。

参考URL:http://www.geocities.jp/showahistory/history2/33 …
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戦国時代までは


1. バイセクシャル(男も女も)--普通
2. 女のみ---------------------人付き合いの悪い奴
3. 男のみ---------------------変人・困った奴

でした。
どうも昔は「友情」という観念が乏しい事もあって、肌を合わせないと信頼できないという考えもあったようです。
肉体関係を重ねる事で男同士が命をかけて信頼し会えるという一面もありますし、戦場には女を連れて行けないという実質上の問題もありました。
武田信玄も織田信長も前田利家も皆両刀使いでした。
男のみというのも、上杉謙信などが有名ですが、これは一面宗教的な考えもあり「女犯」といって、女性を身近におくと仏の加護が得られない、でも「女犯」というくらいだから男ならかまわないだろうと、本人はそうした気持ちで男一本だったようですが、武士というのは家の存続が重要なので、これでは子孫が得られず、殿様が独身のまま亡くなればお家は廃絶ですから、家来や親族は困ったことになります。
事実上杉謙信も急死したため「お館の乱」というお家騒動になり、危うく北条や武田に潰されるところでした。
こうした風習は徳川家光の頃まではかなり大っぴらで、家光も「女は嫌い」という性癖でしたから、中年になり「尼さん」に色香を覚えて手を付けるまでは男一本でした。

わが国に限らず、ある時代の風習ですから恥ずかしいとかそういうことは無いのではないかと思います。
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>あまり信じたくない悲しい仮説


多分、事実ですね。

世界的に見ても珍しい事ではありません。

参考URLは、古代ギリシアについてですが、
よくよく調べると、
「世界の偉人は皆バイセクシャル」と言っても
過言ではないかも。

(私は偉人じゃなくて結構ですけど)

参考URL:http://www.us-ryugaku.com/gay/homo1.htm
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江戸幕府でも、家光の男色は有名ですね。

武家諸法度を大改定して、文武両道に励め!と言ってるくせにですねえ。
このころは、もう異常者として見られてたようですが・・・
あとは、信長の森蘭丸ですね。戦国時代あたりは美しい若い侍を所有するのは、一つのステータスだったのでは?
今の社長秘書みたいな感じで、キレイでしかもキレる若者をさりげなく横に置くのがかっこよかったのかもしれませんね。
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 すくなくとも戦国時代まではごくふつうの風俗でした。

戦国武将の多くはバイセクシュアルです。これは性的嗜好のほかに実利的理由もかねたもので、たとえば主君と性的関係を結んだ家臣は愛情で結ばれているために、変転極まりない戦後の世でも最後まで裏切らない忠臣となることが多いようです。
 有名な例では信長と前田利家が若いころそうだったといいます。ただ、現在と違うのは、大概の場合、家臣のほうの若さのさかりが過ぎてしまえば関係が解消されること、特別異常な関係だとは考えられず現在よりずっとオープンだったこと、の二点でしょう。
 念友もしくは衆道と当時は呼ばれましたが、戦国ごろの記録を読んでいるとこういう話はいくらでも出てきます。主だった武将でこうした話がまったくない人というのは豊臣秀吉くらいで、あとは多かれ少なかれそういう話があるといっても過言ではないでしょう。彼らの家臣統制にとって不可欠なものであったようです。
 ただこれはあくまで戦国時代の特別な風俗であるようで、それ以前、以後の時代においてこれほど男性同性愛がオープンになった時期はありません。江戸時代にもそういう関係はあったようですが、戦国のころのように公的な枠組みでとらえられたわけではなく、あくまでも「異常な個人的嗜好」であったというのが事実であるようです。
 いわゆるお小姓というのは主君を絶対に裏切らないように幼少時からエリート教育を施される藩士ですが、江戸時代中期以降こうした子供たちに手をつけた藩主というのはほとんどいないのではないでしょうか。むろんおもしろおかしく小説や講談にしたてたものはありますが、それはかならずしも事実ではありません。唯一の例外としては相撲の力士や役者が男娼となる陰間茶屋というものがありまして、ここには男性も多く通ったようですが、決して一般的な風俗であるとはいえないような気がします。
 とくに江戸時代は武士によって家名を残すことがなにより重要な価値となりましたから、バイセクシュアルはともかく純粋な同性愛者は武家社会から排除される下地があったことは厳然たる事実です。
 ただ、西欧では同性愛がタブーとしてとらえられた時期が大変ながかったため、その反動として日本の戦国時代を賛美する人がときたまいるようです。その筆の勢いで、江戸時代まで男性同性愛全盛期だった、と理想化された誤解を抱いている人が欧米にいることはいかにもありそうなことだとは思います。
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こんにちは。



実際にありましたよ。「菊華の契り」と称します。
特に薩摩藩で男色が盛んであったのは民俗学的分野からも朗かになっております。
中沢新一の著書にもあったのですが、武士集団を「兵児(へこ)」と呼び、幼少の者は「兵児山」少年期は「兵児二才」そして二十歳を過ぎると「中老」と言う風に組織だっていて、中老は少年達に、武芸や勉学、そして作法を伝授していました。その中で「菊華の契り」は行われ、契りを結べぬ者は一人前の「男」として扱われなかったそうです。

僧や貴族のような性の一嗜好とは関係なく、所謂一種のイニシーションとして、良き年長者の強さや優秀さを取り込むためのものだったのでは無いでしょうか。
悲しい・・と言うよりも寧ろ、誇らしい行為として認識されていたのではないかと思います。

詳しくは南方熊楠の「浄のセクソロジー」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309472 …
白洲正子の「両性具有の美」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103107 …
等を参考にされると、興味本位ではなく、忌み嫌うべきものでもない「男色」理解できるのでは無いかと思います。

御参考になれば幸いです。
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No.3訂正


持論→自論
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持論ですが、


若い侍にとって、仕事に近かったのではないかと。
何にしても殺し合いが生きる道だった当事と今では
何もかも感覚が違うんだと思います。
(とは言っても私は嫌ですが)

多分、当事大名の所へ輿入れされた人はなんとしても子供を大名の子供を生んで自分の利益(生きる道)を得ようともしてたでしょうから。そんな女の人だけにしか囲まれていなかったら・・んー
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こんにちは


黒船来襲以前までは、
全然ふつうの事だったみたいですね。
忠臣蔵の大石内蔵助もそうだし、
戦国武将のラブレター的文献もけっこう残ってるみたいです。
身分の高い武家では、
キレイな男の子が、奥様と旦那様、両方にご奉仕するのが当たり前だったとかいう話も聞いた事があります。
(よく時代劇とかに出て来る刀持って傍にお使えしてる男の子ですね)
今の感覚で考えると
「ひええ~」ですけども。

時代が違えば常識も違うんですよねえ。
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